- 6.地域研究を改めて考える
岩城:
先生と地域研究を繋ぐのは、やっぱり石井米雄先生なんですか?
友杉:
はい。繋ぐも何もね、大学を卒業してアジ研の試験があって受けたら受かっちゃったと。地域研究なるものはそこで始まっているわけです。自分が意図的に地域研究を選んだわけじゃないんです。
ないんだけども、(アジ研に)入ったら地域研究をやっていて、一体地域研究って学問なの、というところから始まって、みんなやっていたわけです。でもこの頃思うにね、地域研究に限らず学問研究の中で、自然科学のように論理的なひとつの体系のもとで実験というやり方があるというのと(は違って)ね、歴史に深く関わるようなところだとね、論理的な体系性というものが保証されるかってどうも保証されないんじゃないかと。ということで、体系性のない学問だってあるんじゃないかと。それの大きなというか一つの事例は、柳田民俗学ってあるでしょ。ああいうのは別に、読んでても体系って感じないでしょ?しかしつまらないとは思わないよね。同じく、バンコクについてもあの種のものをだれかが書けばだれか読むよ。でもつまらないとは言わないと思う。ただ体系性がないのは自然科学に比べて寂しい気はするけどね。
遠藤:
先生が考える地域研究について、今日の話の最後に聞こうと考えていたのですが・・。現在色々と社会がすごいスピードで変わってきてますけど、アジ研に先生は最初はおられて、「地域研究とは何か」ということをまさに創設期に議論しながらやってこられたわけですが、今またそういう議論をするとしたら、先生はどういう風にお答えになりますか。地域研究とは何か、というような議論をするとしたらです。
友杉:
やっぱり、経済学とか社会学とか文化人類学とかやりながら、それだけじゃなくって、ある社会全体に対する感性ですね、目配りだとか。感性というものも非常に大事であって、そういうものなしに個別的なものを個別的なまま、これは経済学だとかこれは社会学だとかいうのとは違うんじゃないかと思っていますね。そうかといって、ただ目配りだけしていいってもんじゃない。そもそも、社会ってそれ自身が手に持てるもんじゃなくて、社会とは、人がいてそこの社会関係があって、何かつながりがあるから「社会」ていうのであって、社会というのはそれ自身目に見えるものでもないし、手に触れるものでもないけども、しかしやっぱり社会というものはある。それで、そういった社会に対する感性ですよね。その感性と自分の特定のディシプリンの間の関係というものは意識していくこと、そういうのが地域研究だと思うね。かつては地域研究って何だろう、自分はこういうものやっていて自分は学者になれるんだろうかとか、そういうのがあったわけですよ。
末廣:
ある時期から、アジ研から大学に移る人がどんどん出てくるようになった。
友杉:
それからまたね、アジ研も留学に出してくれるでしょ。そういうこともあって留学に行って「はい、おわり」という人も出てくると思うよね。
岩城:
アジ研から留学に行ってもうそれでやめてドロップアウト、一般企業に行くのですか。
遠藤:
ちょうど、大学に引き抜かれたりするんですよね、帰国のタイミングで。
友杉:
アジ研から留学してもね、アジ研で何かを尽くすという義務はないわけですから。縛りってないわけでしょ。
岩城:
ではアジ研はお金を出して人を育てて、途中で大学に持っていかれるということが結構あるわけですね。なるほど。
遠藤:
昔に比べて変わっているのではないですか。昔は、末廣先生方の代も、層がすごく厚いじゃないですか。アジ研出身の研究者が大きな大学に多く、今はおられるというか。でも今は事情が少し違うと聞いたことがあります。
末廣:
例えば1983年の9月に僕はタイから戻ってくるでしょ、そうしたら学会で発表してくれないかって(いう話が)いくつか来たけど、そういうのを受けるということは、それまでのアジ研ではあまりなかった。それで私は周りのひとに「出てもいいですか」って聞いたわけです。そういう雰囲気でしたから、東南アジア史学会での報告のときに、石井先生とか池端先生に初めて上智(大学)で会った。向こうも、アジ研にこういう人がいると初めて知った様子でした。当時のアジ研の人が学術的に研究しているという考えは、学会にはあまりなかったと思います。こちらも大学に移るということを前提にしていませんから。
友杉:
アジ研がお金を出して外国に出すでしょ、で戻ってくるよね。戻ってきてアジ研でもっていろんな仕事をしていく。それはそれでいいことであって、望ましいことでもあるけれども、しかしどっか行っちゃったからと言ってね、それがアジ研にとっては無駄であっても日本全体にとってはどこかで役に立つであろうという考え方ですね。そういうことには、くよくよするなって、東畑精一先生(東京大学農学部教授。農業総合研究所所長、アジア経済研究所初代所長)が言っていたそうです。
遠藤:
おそらく、先生たちの世代は、開発経済学やアジア経済論の第1、第2、第3世代というか、大学でもそういう研究が始まってくる割と早い方の段階ですよね。
岩城:
少し話はずれるんですけど、アジ研は2年くらい海外に行かせるためのトレーニングプログラムみたいなのは、海外で用意されているんですか。
末廣:
まず、私の時は5年間(日本に)いないと海外に行くことは許されなかった。まず5年間は勉強しろと。1年目に何を言われたかと言ったら、友杉先生じゃないけども、100本くらいの、日本語と英語で書かれたタイに関する論文を全部ファイルして、それをまず読めと。それから言葉の勉強も少しやりなさいと。それで(2年間海外研修に)行ってアジ研に戻ってから、初めて自分で研究の企画を立てることができるんですよ。それまでは研究会の発案はできない。ところが今は、入った年からもう海外に行くわけです。逆に言えば、すぐ使える人を採用している。それからアメリカに行ったり、ヨーロッパに行くのは現在はOKになったけれど、僕らの時はタイと決めたらそれ以外(の国)はやらないというのが建前でした。ですから辞令をもらうでしょ。そこには「タイ研究を命ずる」って書いてあるわけだから、タイを研究するしかないわけです。
友杉:
私が入った時はヨーロッパとかアメリカになんて考えもできなかったね。それはみんなエジプトやる人はエジプトの大学に行くとか、それからインドネシアに行く人はガジャマダ大学に行くとか、私はタムマサート大学、ということで。みんな自分がやりたいと思った国の大学に行くというのを、疑うことがそもそもなかったね。それ以外にアメリカに行くとかどこそこに行くというのは、当時は全く思いもしなかった。海外に行くのも、(アジ研に)入った年に、中岡三益さんとかはみな、1年目に行きましたからね(*エジプトに派遣)。
末廣:
第1期生ですね。
友杉:
私はもう何も知らない所に行くというのもなんだから、1年間は勉強したいということで自分で日本に残してもらったわけだけども。
友杉:
入った時のこともうひとつ思い出せばね、最初入ったのは丸の内の新丸ビルじゃなくて新丸ビルの裏の方の、あれは三菱だったかな、何かの大きなビルでした。あ、大手町ビルだ。そして大手町ビルの第2かな、第1だったか。できたばっかりのすごく立派な所に入ったわけですよ。それでね、大手町ビルに入って5階かなんかのフロアが全部アジ研のわけね。昼飯を食べに行くのにみんな近くは立派すぎて、金がかかるじゃない。立派すぎてね、困ったってことがありますよ。どこか、同じ建物内で食べようと思ったらうなぎ屋だとかですからね。
末廣:
そのあと新橋(の時代)がありますよね
友杉:
新橋に行ってそのあと市ヶ谷(本村町、自衛隊の横)にいっているわけね。私はその最初の大手町ビルで勤めて、その状態でタイに行って戻ったら市ヶ谷になってた。
遠藤:
そろそろ時間ですね。友杉先生、今日はありがとうございました。
友杉:
どうも。なんかね、まとまらない話になっちゃって失礼しました。
(聞き取りの会ワーキングチーム:岩城考信、遠藤環、小林磨理恵、末廣昭[アイウエオ順])