友杉先生による補遺(2021年11月作成)

補遺1  ニュー・アカデミズム

 いわゆるニュー・アカデミズムの人々、とくに山口昌男さんの本『文化と両義性』などは面白かった。中心と周縁、トリックスター、境界の内と外など多くを学んだ。中心と周縁は、ウォーラーステインの中心による周縁の収奪の議論にまで射程は及ぶ。Port of Tradeにも関わる。バンコクと農村の関係を構想する場合にも参照できる。

 前田愛さんの仕事『都市空間のなかの文学』もとても興味深い。都市を描く文学作品を鮮やかに分析している。当時わたしは立教大学文学部に所属し、前田さんの同僚でもあった。池袋駅から立教大学までの道すがら、前田さんと一緒することもあり、加藤周一『日本文学史序説』について前田さんに訊ねたことを想い出す。


補遺2 商いのジェンダー

 村の通り、寺院の広場での商いは生鮮食料品が全て、賣り手は必ず女性。すぐそばの商店の主人は必ず男性で、商品は工業製品。ジェンダーで商いが分けられる。

 定められた場所、多くは寺院で定められた曜日に市が開かれる。生鮮食料品が商われる。賣り手は女性。しかし商品をトラックで運ぶのは男性である。女性が商いしている間、男性は近くでぶらぶらしている。

 商品が生鮮食料品から工業製品に移行する時に、女性と男性の役割が逆転する。何故か、興味深いテーマである。


補遺3 地域研究の被歴史性

 戦前の日本社会を経験した人は農村社会の封建的性格あるいはヨーロッパ社会を参照して日本社会の後進性を論じた。高度経済成長を経た後では、経済格差、地球温暖化を経験して、ポスト近代社会あるいは定常社会を構想する。

 同様に、地域研究者の全体への眼差しも時代と共に変ってゆく。地域研究は社会を認識することと不可分である。19世紀の社会科学の先人達の労作はすぐれて地域研究の手本となるであろう。彼等の苦闘の結果社会科学が生まれるが、その学問分野の枠組がそのまま現代社会に適用されるべくもない。新たに地域研究が必要とされる理由である。


補遺4 失われた世界

 先に写真で示した村の世界、浮き稲の世界は今では失われた世界となった。人と人が直接的に人格的にふれあい、貨幣を媒介とすることはなかった。

 しかしこの世界は決して閉鎖的ではなく、人々は水路を通して四方に関わった。村の年寄りは若い時に北方はビルマ国境まで商いに出かけた。彼は話しながら携帯したという古びたピストルを見せてくれた。先の写真でノーイ川の川辺で舫う舟はアユタヤ・アランヤジクからの商いであるという。

 この世界はバンコクからの市場経済の動きで無残に消えた。写真で紹介したように、仕事を失くした村の年寄り、とくに男性は虚な眼で終日することなく過す。バンコクに出稼ぎに行っている子供達からの送金を待つ。

 村の女性はホンコンに輸出する人工花の部品作りにひたすら精を出す。

 村はひっそりしてしまった。

 一つの世界消失の代りに村は何を得たのか?村の衛生状態が改善され、電気が入ったことだけでは、支払った代償は余りに大きい。


補遺5 市場経済の流れ

 一つの世界を失くした市場経済の流れはバンコクからの新しい商品の魅力と共にきた。電気が入るととくにテレビ、冷蔵庫がまたたくまに普及した。バイク、車も入った。確かに便利になった。バンコクの生活スタイルが模倣された。

 この市場経済の動きは、村の農業生産の自生的な目覚ましい発展の結果ではけしてなく、バンコクからの市場経済の影響の結果である。

 バンコクと村は、中心と周縁の関係にたたせられる。中心のバンコクにより周縁の村は収奪される。バンコクからの商品流入による村の経済の商品が村の人々の関係も商品化してしまい、このことがバンコク中心の市場経済の一層の発展をもたらした。バンコクで高層ビルが目立つようになったのである。