研究史聞き取りの会〜友杉孝先生(後編)〜

「私の研究したことあるいは研究したかったこと」

第2部:バンコク研究について

(2019年10月27日(土)13:00~ 友杉先生のご自宅にて)

語り手:友杉孝先生(東京大学名誉教授)

聞き手:末廣昭(学習院大学)、岩城考信(呉工業専門高等学校)、遠藤環(埼玉大学)


友杉孝:

それでは、昨年話しました、「私の研究したこと」の続きを話したいと思います。

昨年話した(内容についての)メモがあるわけですけども、1から4までであって、アジア経済研究所の時代だとか、農村研究だとか、目を悪くしたとか、それから経済人類学にはまっちゃったとか、そういうことを色々話したわけですね。時間がなくなっちゃったので、今日、新しく始めるということだと思います。昨年の話した時に、最後に残した所が「5. バンコク研究」で、分量から見ると、昨年のレジュメでは4行しかないところなんですが、今日は、新しく用意したレジュメに沿って話したく思います(*レジュメ)。

友杉:

このレジュメの番号も、いきなり5から始まっていますけど、この5っていうのは昨年のレジュメの5をそのまま引き継いでいるということですね。1番から4番までは昨年話してしまったという趣旨です。そこで、5番のバンコク研究からということなんですが、その前にですね、なぜ農村研究をやっていた人が、バンコク研究に入ったかということについて多少のコメントをしておきたいと思います。それが「はじめに」というところの主旨です。

まず、農村からバンコクという都市研究に移ったということはなぜかということです。一つは農村の方からで、もう一つは都市の方からで、二つ、話している訳です。最初の方の、農村の方から言うと、それまでずっと農村研究をやってきたのですが、1980年代、90年代になってくると、村が全く変質してしまったということです。それはどういうことかと言うと、経済人類学的な用語を使うと、社会関係の中に埋め込まれていた経済行為が、社会関係から自立してしまったということですね。それは、経済人類学のところで(前回に)話したように、私は、この社会関係に埋め込まれた経済行為というのにすっかり惚れてしまって、(経済人類学に)はまっちゃったといういきさつを話したかと思いますけども、それと同じようなことが村で起こってきていました。外からの経済的なインパクトによって、これまで、定常社会という言葉は当時言ってなかったけども、今風に言えば、定常社会ですね、それが崩壊してしまって、全く新しい市場経済に基づく社会に移行していったということがあるわけですね。それは、言うならば、私が馴染んできた村社会というものはもうこの時になると、変わってしまったということになるんです。そういったあまり変わりそうもないと思っていたところが突然さっと変わっていくというのはすごくショッキング、ないし興味深いんですが、何故そういうことが起こりえたかということはまた別問題にして、ともかく村社会が変わってしまったということが一つ。その結果として、前回に写真でもお見せした、人工の花ですね、それを香港に輸出すると。それを作っている人は、それぞれのパートについて、自分が何を作っているのか分からない。ただ、針金にトイレットペーパーを巻きつけているだけだといったような作業、そういったものを寄せ集めて一つの花を作って、出来上がったものは誰も見ない。そういった生産が、村の中で急速に広がってしまった。定常社会から、そうではない社会に変化していって、経済行為が社会関係の中で、つまり親子関係だとか、隣近所の関係でもって経済的な行為が行われるんじゃなくって、もうここでは、お金によって、賃労働でやられていく。そして、村の人もですね、生活を良くするために、都市に、つまりバンコクに出稼ぎに行って、そこから両親に仕送りしていく。結果として、村では人工花がいっぱい作られるし、男の年寄りはやることが無くなっちゃって、げっそりしているといった社会が出来上がってきた。そういった社会は私がやっていた、面白がっていた社会とはまた別の問題である。それが一つですね。

それからもう一つは、都市の方からで言うと、当時日本では、都市研究が大変盛んになっていました。当時、私は立教大学に勤めていたわけですが、そこでの前田愛さんという人が『都市空間のなかの文学』だとか、あるいは明治大学の中村雄二郎さんだとか、私の友達の青木保さんだとか、あるいは、あなた(*岩城考信)の先生の陣内秀信さんだとか、色々なそういう人達がですね、都市研究に向かっていました。あるいは、都市研究に関わる、例えば山口昌男さんが道化の問題だとかをやっていました。それは、後から、「ニューアカデミズム」と言われる一つの流れになったわけです。その中で私は、青木さんと前から親しくしていたので、スリランカにもそういうことで(一緒に)行ったし、それから、青木さんが大阪の吹田の民族学博物館で研究会を組織して、そこでの研究成果というのが、ここにある儀礼に関する本です1

こういう本をその研究会で出したわけです。今から思うと、怖くてこういうものは書く気にはならないんですけども、当時は何か、怖いもの知らずという感じのところがあって、言われるままにやって書いていったわけですね。本の表紙の写真も、スリランカで私が撮っているんですね。夜中、お墓の亡者が現れて、それを見ることによって、うつ病になっている人が良くなっていくと。そういう病気直しの儀礼が行われた、その時の写真なんです。なんかもう怖いもの知らずでやっていたから、こういうものを書いて、そして、青木さんの都合でずっと年を越して(本の出版が)遅れていたわけね。そしたら、(出版まで)時間があるからまた何か書いてくれっていうことになっちゃって、付け足しに「付録」を付けました。ロンドンのマーケットについてあれこれの紹介をするというような蛇足も加えて書いた本です。そういった「ニューアカデミズム」といわれるものが日本で盛んになって、それに乗って私も都市研究をはじめていったということです。

たまたまその後、日本学術振興会から話があって、2年間、バンコク事務所所長を務めてくれと言われました。私の前任者が、田辺繁治さんであって、彼が皆、用意をしてくれていたわけですね。用意というのは、新しく事務所を開設する訳ですから、湯飲み茶わんから何から何まで買わなくちゃいけないわけです。自動車も買わなくちゃならない。運転手も雇わなくちゃならない。そういうことは、みんな、前任者の田辺さんがやっていってくれたので、私はただそこに乗っかるだけだったわけですね。それで、私は大変楽ちんだったわけです。そこで、その機会を利用して、サームセーンの文書館に通ったわけです。その結果が、ラーマ5世文書の筆写ということで、またあとで改めて話します。学振の事務所で2年間勤務したわけですが、その時にしたことが、5世文書の筆写と、古い、コ・ラッタナコーシン(*ラッタナコーシン島)のバンコクで、年寄り、なるべく年取った人から聞き取りをすること。昔はどうだったか、ということについて話を聞く。それから3つ目がやはり古いバンコクを中心に町の観察を続ける。その際、写真も撮るということで、写真についてはまた後で話します。その3つ、文書の筆写と聞き取りと写真撮影、3つをやったわけですけども、それをまとめたのが、この4に書いてある、Reminiscences of Old Bangkok2ということであります。それはですね、意図とすれば、それぞれの文書だとか年寄りの話だとか景観という資料を3つに束ねたということで、いわゆる、古いバンコクについての資料集というべきものなんですね、本来は。ところが、言い訳すれば(執筆したのが)もう定年の年ということもあって、急いでいました。(本来は)資料集というのと、まとまった歴史記述、コ・ラッタナコーシンについての話を物語るというとでは全く違うわけです。そのことからこの本は、「これはなんだろう」というものになってしまったということです。今から反省的に言えば、古いバンコク、コ・ラッタナコーシンの中を歩いて、そこにはどんな出来事があったとか、どんな年寄りが住んでいただとか、色々そういう話を付け加えていけば、話が平面じゃなくてもっと立体的になって、一つの記述としてもっとまともな形になったんじゃないかと。そう反省的に思い出しているところです。そういうことで、このReminiscences of Old Bangkokという本は、なにか歴史記述を思わせていて、「なにこれ?」といったものに終わってしまっていると自ら考えております。

  • 1.バンコクの成立と展開 

ここまでが、今日の「はじめ」というところであって、これから、バンコクの研究の話に入っていきます。最初はやはり順序として、19世紀のバンコクということですね。これは既に、岩波の『東南アジア史講座』3に書いていますから、これによれば良いというところですけれども、おおまかにいえば、この岩波講座の表題も「港市バンコクの誕生と変容」になっていますけども、二つあります。一つは港市といわれるものですね。それは、王権と、port of trade、交易港というものを組み合わせて(考える)。新しく、アユタヤ滅亡によってできあがっていくバンコクというのは、本来的に、多民族である。タイ人に限らず、中国人だとかモン人だとか、色んな民族が入っていて、それからさらにアユタヤから逃げてきてバンコクに来た人もいるわけであって、そういった人は、バンコクにおける地名から見ていくことができます。幾つかの地名については、この地名はどこにあって、何をやっていたか、とかいう様なことを説明しております。

それからもう一つは、景観の変化ということであって、最初は、(バンコクの地は)ただの水たまりであった。そして、あちらこちらに木がヒョロヒョロ伸びているような所であったのが、そういう所を、異民族を徭役労働に駆りたてて労働をさせる。例えばカンボジア人を動員した。当時、タイ社会は疲弊していたので、農民を徭役に出すということが難しかったので、周辺の異民族をたくさん引っ張ってきて水路を掘ったわけです。それから、王家のお寺だとか宮殿だとか、そういうものを造っていったわけですね。そういった人は仕事が終わったら全部帰っちゃうのではなくて、幾らかは残るでしょうし、ますます多民族になっていく。そういう徭役労働は大変だったので、アユタヤ時代に年6ヵ月が、その後4か月になって、19世紀になれば3か月になって、それも廃止されました。代わりに当時、いっぱい入ってきた中国人が、いわゆるクーリーですね、「苦力」と良く書いてある、あのクーリーになって、農民に代わった、というのが19世紀です。これはやはり、タイにおける、貨幣経済の拡大に大いに役立ったはずです。そのクーリーなどが入っていくと、そこでお金が必要になる訳です。そのことから、徴税請負制度というのが成り立ってきて、一定の租税を集める。そして、租税を集める人に統治権も与えるということで、その徴税請負人による農民の苛斂誅求というか、そういうことも起こってくるわけです。その結果、あれやこれやいっぱい話すことはあるんですが、今日はあまり時間が無いと思いますので、飛ばしますが、ともかく、バンコクはこれまで湿地であったわけですね。その水たまりの所をですね、陸地にして家を建ててということで、まだ水たまりが残っている。そういうところ、あるいは土地の低い所は水路を通すということによって、水路の町だったということです。バンコクは東洋のベニスと言われるのもそういった所に由来するかと思います。そういった水路からですね、陸路に変化していくわけです。明らかに、水路と陸路ではある一定のところへ行くのに違いがあるわけです。いちいち船に乗って行って陸に上がってというのは、船で行くためには船を漕ぐ人を呼ばなくちゃいけないし、それから杭に綱で結ばれているのをほどかなくちゃならないとか色々あるわけですね。いっぱい混むと、乗り降りも大変だということで、水路は遊びに行くにはいいんだけども、何かの用事を済ませるというのは大変なわけです。そこで、陸路で、馬車を使って行くというのがずっと便利になるわけですね。そのあと馬車が、時代を経ると車に変わっていくわけです。だから船から車に行くということがバンコクの近代化そのものであると言えるわけです。ここ(のレジュメ)にある「図1と図2の比較」というのは、前にお配りした(*第1回聞き取りの会)図1図2であって、19世紀初めのトンブリー王朝から引き継いだバンコクと、その後の陸路が発達した20世紀初めのバンコクで、「岩波講座」4の中の地図をコピーしたものです。それが前に配った資料の中に入っています。図1、図2で比較すれば明らかにですね、19世紀と20世紀の間に大きな違いがあって、陸路の発展だとか、たくさんの領事館だとか、外国商社だとか、いろんなものが入ってきて、19世紀と20世紀の初頭の違いが示されているということです。それがバンコクの成立・展開論の大変荒っぽい要約です。

  • 2.ラーマ5世文書筆写

その次がいよいよ今日の本題であって、2年間のバンコク滞在の間にどういうことをやったかということについてです。まず一つ目が、ラーマ5世文書の筆写ということで、これはサームセーンの文書館に行って、やりました。ラーマ5世文書というのは膨大なものがあるわけですね。文書だから砕けた話はないかもしれないけども、しかし見ていくとですね、ラーマ5世当時の社会を物語る資料には違いないわけであって、色々なことに話題が渡っているわけですね。それはやはり魅力的なものです。今までラーマ5世、6世、7世に関して、バンコクの社会的資料は大変乏しかった。一部英語の新聞だとかその他はあってもですね、そう多くはない。そこで、この未利用の5世文書に手を付けなければという気になってですね、手を付けてしまったわけです。これが大変なわけであって、とても一人ではやっていられないという量があるわけですね。そこで、学振に勤めていたわけですから学振に車があるわけです。それから助手もついているわけです。学振の格別の用事がなければ、日本からのお客さんが来てどこそこへ案内するだとか、そういったものがなければですね、時間はあるわけです。そういうことからですね、学振の車を利用して、朝、サームセーンの文書館へ行って、ラーマ5世文書を見せてもらおう、と。見せてもらって写していたらとても間に合わないということで、連れて行った助手に写してもらって、その写してもらったのをあとで私が読むといった作業を2年間ちかく続けたわけです。その結果がですね、写した文書を簡易製本した、ここにある本です。これがですね、31巻あります。

遠藤:

先生、タイプしているんですか?

友杉:

はい。助手が写してタイプして、そしてこういう製本にしてもらっているわけです。

末廣:

最初は手で写して、次にタイプで打ったのですか? 先生から預かっている資料が東大にありますよね、製本したもの。あれは一部ですよね、31冊もないですから。学生に見せなさいと言われましたよね。ですので、東大の図書館に寄贈しました。

遠藤:

これは先生、全部を写したわけじゃなくて、トピックをピックアップして写したんですか?

友杉:

そうです。私がばっと見て、これ面白そうだ、と思ったものです。例えば、バーンタナオという字があると、じゃあそれを、と。圧倒的に都市関係ね。

遠藤:

決めていたわけじゃなくて、一通り、全部目を通して、ピックアップしたのですか?

友杉:

そう、目を通して。

遠藤:

毎日、こことここは、もっと読みたい、と。

友杉:

これとこれは写してくれ、という指示を出して、帰るわけです。文書館の前の向こう側の角っこに、昼飯を食べるのに良い場所があってね、それが楽しみだったね。それから吉川利治さん(大阪外国語大学)もあそこへよく通っていてね。吉川さんも、西の泰緬鉄道関係の資料をあそこで写していました。

末廣:

ここからまた英語に訳したわけですよね。

友杉:

Reminiscences of Old Bangkok5の73ページ以降ですね。73ページ以降に、Old incidentという章があって、ここに土地係争だとか、その一部ですね。それから道路の清掃だとか、それぞれ見出しを付けてだしておきました。これはこれとしてね、結構面白いんですけどね、この本のまずいのは、これと、他のところのつながりが全然わからないわけね。なんか「プーライ」というのは、橋のたもとに潜んでいて、襲って強盗を働くという、当時、街灯もないからそういうところあるんだとか。それから放火の話ですね。不注意による放火から故意による失火までいろんな火事があるわけです。そういった出来事は、いくつか選んで、それをここにサンプル的に出してあるわけですね。このラーマ5世文書というのはね、歴史家がまだそんなに利用していなかったわけですよ。そういうことから私としては張り切ってやっていたんですけどね、なんか他のことも含めて(本の議論は)バラバラになっちゃっているわけです。このラーマ5世文書は、文書として大変面白いものですから、もっと組織だった、チームを組んでやれば良かったと思います。とにかくでかいから、一人でやっている分には大変なんです。そもそもこれは文書館にありますけど、タイ文書(もんじょ)としてラーマ5世文書として出版すれば、すごくいいと思うんですけどね。そういうことをやってくれているかどうか、私はその後、全然行っていないからわからないんですけども。

岩城:

その後も、そういうものはありません。

末廣:

このAcknowledgementsのところに、サマイ・ロートパイ(Samai Rotphai)さんとスニダーさん(Sunida Kaeochunggoen)の二人への謝辞が出ているんですけど、さっきの助手というのはこのサマイさんという人ですか? それからスニダーさんというのが、・・

友杉:

サマイさんが運転手で、それからスニダーさんが助手です。

末廣:

この本の筆写やっていた人ですか?学振で雇っていた人ですか?

友杉:

学振で雇っていた人です。

末廣:

専門は何かやっていたんですか。

友杉:

専門は何でもない。

末廣:

じゃあもっぱら筆写していたのはこのスニダーさんという人ですか。

友杉:

そうです。

岩城:

先生、当時はコピーはできなかったんですか、書き写さないといけなかったんですか。

友杉:

書かなきゃいけなかった。

岩城:

なるほど。今はコピーを取ることができます。

友杉:

でもね、これだけ量があるとコピーも容易ではないですよ。ある2,3ページ、あるいは10ページだけならいいけどね。何百ページもあるからね。嫌がられますよ。

岩城:

なるほど そうですね。

岩城:

特に、例えば「土地」であるとか「火事」、あるいは「プーライ」などに先生がフォーカスした理由は何かあるんですか。

友杉:

社会的な出来事として、私がそれは面白いなと思うことが大きなフォーカスですね。「土地」はね、おもしろくもなんともないんですよ、やたらと(記述が)あるからね。でもものすごく数があるから、無視するわけにいかないでしょ。だから選ぶのはバーンタナオだとか、それからフアンナコーン(Fuang Nakhon)とか、道路の名前が出てくるだとか、そういうものでもってひっかけていくと。

岩城:

先生がこの中で一番面白いと思ったトピックは何ですか。「火事」ですか。やはり、一番面白いと思ったトピックは「プーライ」とか「火事」とかですか。

友杉:

そうですね。それから「道路の清掃」も意外と面白かったね。ともかく道でみんなトイレをやっていたからね。

岩城:

あと、(当時は)側溝で排便する人とかもいましたよね。

友杉:

それもなんかね。今は、トイレだけすましたところもあるわけですけどね。

岩城:

僕も似たようなものを読んだことがあって、道で排便するんだと書いてありました。あるいは道に捨てる人もいて。

友杉:

そう。それから馬が死んだらね、掘らないで死骸をほっておくと。そうするとものすごい匂いがするわけであってね。そういうことが普通のこととして行われていたと。それからあるいはね、「アヘン」ですね。アヘンを飲んで不慮の死を遂げてしまうと、「不審死」であって、警察がそれを調べるとか。そういった記事も色々と載っていますよ。これだけ面白いからね、これだけやってほかはやらなきゃよかったと思うくらいだけどね。面白いからやっているわけです。これを午前中にやって、午後は自分で勝手に街歩きをしているわけね。

岩城:

アヘンと売春宿に関しては今も全然研究が進んでいないです。

友杉:

あとの聞き取りでもね、かつて売春宿は至る所にあったとしか言いようがないような話がいくつも出てくるね。

岩城:

そんなにコ・ラッタナコーシンの中にもあったんですか。正確な位置がわからないんですよね。

末廣:

緑のランプといわなかったですかね。

友杉:

緑があります。

末廣:

コーム・キアオ(khom khiao)、つまり「緑の灯」というのが確か売春宿でした。日本のかつての赤線と同じような言い方ですよね。

脚注

  1. 青木保、黒田悦子編(1988)『儀礼:文化と形式的行動』東京大学出版会。
  2. Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo.
  3. 友杉孝(2001)「港市バンコクの誕生と変容」斎藤照子責任編集『東南アジア世界の再編(岩波講座東南アジア史第5巻)』、岩波書店。
  4. 注3参照。
  5. 注2参照。