研究史聞き取りの会〜友杉孝先生(後編)〜

5.バンコク、タイを研究すること

岩城:

例えば今先生がおっしゃった、やりたい(研究)というのは例えばどういうことですか、もしチャンスがあったら何をしたいですか。

友杉:

今言った写真もですね、こういった50ミリじゃなくて今あるズームレンズでもって撮りたいとか、何回も繰り返して話したこの本(*Reminiscences of Old Bangkok)の不備なところね、それを訂正して、写真と聞き書きしたところと、それと文書とを重ねて、今バラバラにあるからこれなんだになっているけども、文書に出てる面白い話があればそれを紹介して、その紹介した場所はここだという写真があって、とうようなことを組み合わせて行けば、もう少し話がまとまってくる。望むべくはもっとここでは社会慣習ですね、例えば年中行事を、具体的に何をやってどうやったとか、個人の一生の間、誕生から死ぬまでの間の事柄についてほとんど触れてないから、そういう年中行事だとか、個人の一生のライフサイクルだとか、そういうものをですね、やっていくこと。だから望むべくはですね、バーン・タナオですね。タナオ通りの棟割長屋のどこかを一つ借りて、そこで1年間暮らすと。バンコクだから、自分で炊事しなくても大体はいけるしね。自分で作ってもいいわけだけども、東京でもやっているようにバンコクでもやっていればいいわけで、どこかあの辺のタナオ道路だとかバーンモーだとかそういうところでどっかあると思うのね。立派な新しい郊外のマンションなんかはどうでもいいわけであってですね。そしてそこで年中行事だとか何かを聞き出していくと。そこに来られたら迷惑だという人も随分いるだろうと思いますけども、そういうことをやっていくと、バンコクについての研究が、全然厚みが違ってくると思うのね。ここで今出来事を拾っていくだけですけれども、出来事というよりもむしろ行事としてやっているような事柄をいっぱい取り上げて行けば、何か厚みができて、望むべきはですね、歴史としての現在ですね。現在のことを書くことによって、それは年中行事としてこう伝わっているものをこういう風にやっているんだと。あるいは人が生まれてから死ぬまでの事柄をこうやっているんだということをみることができるわけです。そういうことと、今日話したようないろんな出来事ですね、これらを組み合わせて、歴史としての現在というものをもっと浮かび上がらせるというかな。そういう意味ではね、歴史をひとつ理念的に解釈して、歴史はこういう風になっていくんだとか何とかという段階論ね。ああいうんじゃなくて、歴史のある意味での体系性というものを諦めてーわたしは諦めてますからー、そうじゃなくて個別性にもっと執着したもので、ある種の、それはバンコクのタナオの所の何とかという人に基づきながら、同時にそれはタイ地域研究の中の一つであって、というようになにがしかの普遍性を持ちうるようなものを、望むべくは目指したい。だけどももう無理だと思っていますけどね。 でもバンコクって色々と言われているけども意外と研究されていないんですよ。

岩城:

されていないと思います。

友杉:

岩城さんあたりがもっとやってくださると思っていますけど。

遠藤:

先生、もうちょっと大丈夫ですか?岩城君達と先ほど打ち合わせした時に幾つか質問が出ていたのですが。先生は、本の中で近代化とかモダニティとかモダナイゼーションについて書かれていますよね。「近代性」。先生にとってのモダニティとかモダナイゼーションとは何ですか。当時バンコクを見ていてそこへのこだわりはどういうものだったのかをもう少し教えてください。

友杉:

ボーリング条約によってね、タイ社会が変化していくんですね、社会変化。そういうのを普通モダナイゼーションってタイに則していえば言っているわけですね。基本的にはそれにのっとって、タートだとかそういうのは無くなって、そういう動きを普通はモダナイゼーションと言っていますけども。それはタイ以外の国においてもヨーロッパ起源のモダナイゼーションというものはタイに及んできて、という風に理解されていますけども、改めて、タイのモダナイゼーション何であったかというのは一つ問題としては立てられると思うな。タートが女中になったり、チョーンクラベーンがズボンになり、テーラーが繁盛したりです。

岩城:

先生の本でもよく出てくるんですが、(バンコクは)モザイクで、アスキュー(*Mark Askew)がパッチワークド・シティという風な言い方をするんですけど、やっぱりバンコクの魅力はバラバラ感というか、それがひとつ緩やかにくっついているようなことかと思います。だから描きにくいのかなと思うんですけど。

友杉:

それもありますね。

岩城: 

モザイクに関して、先生どのように考えていますか。

友杉:

モザイクで見ると、絵がパッチワークにあって動かすとぱっと変わっちゃって。ああいうことをイメージしたわけですね、バンコクの。オリエンタルホテルだとかあの辺に見えるようなものがあると思えば、ちょっと行くとですね、裸同然の人もいるし、道端ではマンゴー売っている。そういうのがみんな同居していますよ。そういう面白さがあるね。

末廣:

万華鏡みたいに。

友杉:

そうそう、万華鏡。だからあの万華鏡がね、おもしろいって言っちゃったのがこの本の間違いでね。万華鏡、カレードスコープって(タームを)使わなければよかったのにと思っているわけです。ああいうものを使ったからおかしくなっちゃったんです。万華鏡はね、カレードスコープは自分で動かせるでしょ。だからこの絵が別の絵にぱっと変わったらおもしろいけども、ところが本はね、動かないわけだから。本は動かないから、カレードスコープはこうやって動いて行って面白く楽しめるんだけど、本は動かなくてぱっとなってるままだから、ドキュメントはドキュメント、写真は写真、何とかは何とかになっちゃって、万華鏡の動かない状況なんだな。だから私は、これはせいぜい資料集であって、バンコクに関心のある人はこれを読んでもらえば、ここから自分のこれはおもしろいというものを引き出せれば役目を果たすと。でもこういう本になっちゃうと、読む人もいないから役目も果たせなくなっちゃっているんですけどね。そういうこともあって、できればやっぱりタナオ辺りでね、1軒借りて1年間過ごせればと思います。

末廣:

先生は、前はゴールデンホースに泊まられていたでしょう。ナンルーンとかあっちの方に最初興味があったと思うんですよ。アジア経済研究所の最初のオフィスもあったし(サパーンカーオの近く、国家経済社会開発庁や国家統計局と隣接したRSホテルの中にあった)。ところがいつ頃からフアンナコーンとかこういうバーンモーとかタナオに(関心が)移ったのですか?

友杉:

いつ頃か覚えてないな。ただ、タイ研究を辞めてからですね、十何年経っているからね。それより前の話だからね。いつから関心がどうとかね、そこからタナオに移ったかとか定かじゃないですけどね。でもナンルーンの方も面白くて、タナオとナンルーンは市場ということで関心があったわけね。私が(関心を持った)商品ということでは、一つは市場のような生鮮食料品をやっているところ。もう一つは貴金属をやっているようなところです。それで「商品の系譜」ということで『儀礼』という本にも書いているんですけど、商品の系譜で生鮮食料品の食品の方から資本主義が出るんじゃなくて、資本主義は貴金属の方からだろうという趣旨のことを言っているわけですよね。それでありますから、タナオ、ナンルーンというのは市場ということからですね、面白くって。ナンルーンで写真だけ見てくださいってかつてこの本ですね、配ったことあるんですよ、市場の人に。配って、そこに聞きに行ってタナオとの組合みたいものだとか、国が設置を促している、何とかという組合だとか、あそこで知りたいと色々とやっていたわけね。それでナンルーンとの馴染みもできて、本も送って、何人かそういう人を作ったわけです。ところがね、土曜だとかなんかになると、競馬だったかな、何かでもって、だれも相手にする人がいなくなっちゃうわけだな。あそこは(競馬場に)近いからね。ということで、それから何か他のものでもね、みんなラジオだとかテレビだとかあっち行っちゃってね、私の話をみんな聞いてくれないわけだよ。それで苦労したことはあるけどね。面白いところですよ。あそこには大きなお寺もあったりね。それからすぐ近くの何てお寺だったか、東北の人がいっぱい出稼ぎにきているわけですよ。出稼ぎに来ていてそのお寺の辺に泊まっているわけです。その人と、もといたナンルーンの人とはね、どういう繋がりができるのか。あまりできてないんだけどね。でも喧嘩があるかないかとか、色々関心があったわけです。思い出すと、東北タイからの出稼ぎ者はお寺のところに随分いると。そこでタムマサート大学の女性の社会学の人かなんだったかとあの辺で知り合って、共同研究しようかという話もあったんですけどね。しないで結局うやむやになって過ぎてしまった。そういうことで、ナンルーンの人、おもしろいことはおもしろい。発端はあそこのプリンセスホテルって言ったかな(*RSホテル) 元々アジ研の事務所があそこにあったんですよ。

末廣:

アジア経済研究所の人間はみんなあそこに泊まりました。

友杉:

ゴールデンホースに行く前はあそこにいたんですよ。

岩城:

なぜ皆さん、ゴールデンホースにいくんですか。結構、交通の便が悪い気がするんですけど。

末廣:

いやいや、我々はゴールデンホースには泊まっていません。多分、北原先生と友杉先生以外にゴールデンホースに泊った人はいないと思う。

岩城: 

何で北原先生、ゴールデンホースなんて真ん中の所に泊るんだろうといつも思っていました。

友杉:

赤木さんもあの辺に泊まってなかったかな。

末廣:

北原さんと一緒に行くときは、あそこへ行きますね。前はもっとタムマサート大学のそばにみんないましたよ。

友杉:

玉田さんがね、(言ってたことで)覚えているのはね、ゴールデンホースのライスカレーが旨いということ。

遠藤:

もう一つ確認なんですが、さきほど『儀礼』、この本の話が出た時に、付録を書いたとおっしゃってたと思うんですけど、付録を書いたのはここには入っていますか。

友杉:

付録はね、入っています。これは、青木さんが何かの事情でずっと遅れて。原稿が出しっぱなしで処置に困って、すでに(原稿を)出した人は何か追加してくださいということになってね。これ追記です1。そこでなんかね、ロンドンのマーケットについて付け足している。それは(本来は)いらない話ですよ。

岩城:

友杉先生は、1980年代に、前田愛先生とか陣内秀信先生とかの、80年代の終わり、90年代の頭位の都市論、江戸東京論に非常に影響受けたとおっしゃったんですけど、その後、『アジア都市の諸相』で陣内先生とか清水先生たちと一緒に本を出されていますよね?『アジア都市の諸相』だったと思うんだけど。

友杉:

出している。

岩城:

一緒に研究会をされていたと昔聞いたことがあります。陣内先生とかフィリピンの清水展先生(*九州大学教授、のち京都大学東南アジア研究センター所長)とかと一緒に研究会をされていたんですか、という質問です。

友杉:

思い出してきました。これは東洋文化研究所の研究ですね。私が主催の研究会です。

岩城:

ですよね。それはどういった経緯でつくられたんですか?あるいはどうやってこのメンバーをよんでいったのかなあと。

友杉:

いや、なんか書いてくれそうな人ということですよ。

岩城:

呼んだってことですか。これはどうだったんですか、楽しかったですか?

友杉:

まあね。

岩城:

当時興味を持っている研究者たちを呼んだということですか

友杉:

そうです。

岩城:

これは出たのはいつでしたか。

遠藤

2000年代初頭か90年代ですよね。

友杉:

その時はどうだったのかな。もうなんかね、今言われて初めて思い出したからね。

岩城:

僕はこの本から先生の研究を読み始めたので。

友杉:

さっきの『儀礼』の中の論文の付記というのはなくてもいいやつで、1年以上出版されないで、置いといたらまずいっていうんで、付け足したわけです。でもさっきも話しましたけども、儀礼の研究会に入って論文まで書くというのはやっぱり、昔は若くて、怖いものなしでやっていたという感じだね。でも何か今になって人類学と経済学の間を結びつけるような仕事というのはあまり見られなくなってしまって、それは残念だけどね。

末廣:

一つは五世文書、歴史文書ですね。それから2番目が古老からの聞き取り調査、それから写真で景観を撮る。この3つを組み合わせるという方法は、都市研究をやっていた人たちから学んだんじゃなくて、先生ご自身の発想なんですか?

友杉:

どうなのかなぁ。格別にみんなから学んだというよりも、そこでそういうことができるからやった。

バンコクに駐在していたでしょ。そこで文書を助手を使って筆写できるというんでまかせる。それから写真撮るというのは前からやっていた。

末廣:

そうですね。写真撮影は昔からやっておられましたものね。でも聞き取り調査もそうですよね。

友杉:

それは農村で聞き取りやっていたわけですからね。だから新しく文書をうつすというのは、学振で2年間助手を利用できた、ということだと思います。でもものすごく苦労した割に、助手にも悪いことしたなと思うけどね、もっとちゃんとしたまとまった本になればよかった。そこにもともかく(文書のコピーが)何十冊か置いてありますからね。

岩城:

これすごい(資料)ですよね。

友杉:

文書館にある膨大なものから選び出して、2年間かけて選んだものからまたその一部しか翻訳してないわけですよ。

遠藤:

経済人類学だと、例えば市場とか、そういったものに関心を持つようなアプローチもあったと思うんですけど、社会史的なことにむしろ先生の関心が向いたのは何か理由があるんですか?

友杉:

社会史はニューアカデミズムといった中村雄二郎さんだとか、みんなそういうことには関心をもってましたよ。だから私だけじゃないのね。中村雄二郎さんに関して言えば、当時栗本慎一郎さんという人がいて、明治大学の教師やっていた。中村雄二郎さんは教授だった、哲学ね。そこで栗本慎一郎さんは助教授だったわけですよ。当時明治大学では助教授には大学院の授業を持たせないということだったそうです。それは困るからというんで、私にですね、大学院の授業を持ってくれと。私は別に経済人類学を勉強はしているけど、始めたばっかりであって格別に深い知識はないわけですけどね、ポランニーが好きでやってたわけですよ。栗本さんもそういうのが好きで、栗本さんはポランニーを翻訳した本を日本で初めて出して、そういう意味でポランニーの紹介者でもあったわけです(*カール・ポランニー、玉野井芳郎・栗本慎一郎訳『市場社会の虚構性』岩波現代選書47、1980年)。ともあれ大学院で授業できる人を探しているというんで、わざわざですね、中村雄二郎さんが私を呼んで、授業をやってくれないかというんで、引き受けちゃったわけです。だから明治大学の大学院で栗本さんの代わりに私が授業をやったわけです。一時、ほんの一時期だけどね。2年間くらい続いたかな。駿河台のところに行って、やっていたわけです。栗本さんという人もすごく面白い人でね、今から言うと、ところを得なかったというかな、そういうんだけども明大の教授になったから、私は(授業は)辞めたわけです。明大の教授になってしばらくしてね、明大を辞めちゃって自民党の代議士になったわけですよ。自民党の代議士を2期やっているわけです。東京世田谷区から立候補して。その間テレビにも出演して。料理番組ですよ。「料理の鉄人」とかって言ってね、洋食だとか和食だとか中華とか「料理の鉄人」という番組があってね、その番組の彼はそれを見て、みんなが作っていくのをどれがいいかって決める審判みたいな役をやって、よくやるなと思ってね。私も食べるのは好きだけどああいうことはできないと思うようなね、鉄人といわれるようなそれぞれの一流のシェフの作ったものを食べて、どれがいいかということを決めるわけです。それをテレビ番組でやっていたわけね。そして自民党代議士を2期やって、何かの問題で自民党の方針と彼の見解は違ったと。そうするとその見解が違ったときに、彼は自分の見解でやると言って、除名になってしまった。彼から言うと離党して、その後ね、すぐですよ、脳梗塞で倒れた。脳梗塞で倒れてそのあとがんばった甲斐があって、かなり回復して、東京農業大学の先生になったわけです。なったかと思うと、そこで、みみずの研究で梗塞を治す効果があるとかいうんで、ミミズの研究かなにかに打ち込んで、まもなく亡くなった。

末廣:

いまの古市に似ているよね。昔なんかバラエティーに出まくっていたから。それで大学の授業をほったらかしにしてテレビ出まくっているという非難もあったし。私達の同世代ですね・・・。

友杉:

研究していくといろんな人と出会うんで栗本さんも一人だけども、青木保さんともね、一緒にスリランカに行ったりですね、民博の研究会やったり、『儀礼』という本を出して(一緒に)やっていました。

岩城:

大学の先生もされていたように思うのですが。

友杉:

青木さんとは喧嘩別れは全然してないんだけども何となく疎遠になってしまったんだけども。

末廣:

『タイの僧院にて』は何年ごろでしたか。

友杉:

『タイの僧院にて』2。そこにありますよ、本が。

末廣:

先生が一緒に研究されてたのは、『タイの僧院にて』の前ですか?

友杉:

いや、あとです。あれは彼の一番初めの本です。青木さん自身は、山口昌男さんだとかと仲良くやっていたわけです。でもなんか今からニューアカデミズムといっても、多くの人が亡くなっていてね。中村雄二郎さんにしろ、前田愛さんにしろ、山口昌男さんも亡くなったしね。残っているのは青木保さんだとか。それからニューアカデミズムで集まっていたのは経済学では岩井克人さん(*元東京大学経済学部教授)。ああいう人たちが集まっていたわけです。

末廣:

先生は玉野井芳郎先生とは交流はなかったんですか。ポランニー研究を通じて。

友杉:

玉野井さんとは随分かかわった所があって、玉野井さんの、日本の岩波新書でこの本がないかって。たまたま持っていて、滋賀県の方の歴史の本だけども持って行ったとかね、玉野井さんとは色々関わってました。玉野井さんも中村尚司さん(*アジア経済研究所のスリランカ研究者、その後、龍谷大学教授)と非常に近くて、中村尚司さんの誘いにのったかどうか知らないけども、沖縄(の大学)に行っちゃったでしょ。そういうことで自然と疎遠になっていきましたけどね。でも一時は玉野井さんとは随分近くにいました。玉野井さんはポランニーの日本の紹介者ということです。

遠藤:

地理学としては、先生はどのような位置づけになるのでしょうか。

友杉:

地理学はね、学生の時から、地理学って何をやるんだろうとわからなくてね。大体ね、どこそこに何があるってそんなこと覚えたってしょうがないじゃないと色々と理屈をこねていて、何をやるところかわからないということで、自分から出てきちゃったわけです。ということで、地理学プロパーといわれている人たちとは全然関わりはないね。

遠藤:

では、先生は地理学というアイデンティティは途中からないんですね。

友杉:

ないね。

岩城:

そうなんですか。僕はバンコクの研究をしているときに地理学のアイデンティティが出てきたのかなと思ったんですけど。

脚注

  1. 友杉孝(1988)「商品の系譜」青木保、黒田悦子編『儀礼:文化と形式的行動』、東京大学出版会。
  2. 青木保(1979)『タイの僧院にて』中公文庫。