研究史聞き取りの会〜友杉孝先生(後編)〜

  • 4.景観観察

友杉

ともあれクラウンプロパティビューローでは私は資料を見ることはできなかった。次(の話題)へ行きます。次はですね、景観観察ということですが、これは街歩きが好きだからしょっちゅう歩いて、その辺のバーミーでも食べるのが大好きだったというわけですが。当時写真を撮っていたわけですけども、ニコンFで50ミリの標準レンズですね。コダッククロームだとか白黒写真です。これが当時の状況です。今ではこれが全く変わっちゃっています。今はフィルム使わないでしょ、SDメモリーで。フィルムは1個36枚、せいぜいね。SDメモリーは3,000枚くらいは簡単にありますよね。だからいっぺんでぱっぱっぱと撮るのがものすごく簡単なわけです。しかも同じくニコンであっても、ズームレンズを使うと50ミリだけじゃなくて私の今そこにあるのは18ミリから2百何十ミリまであって全然違うわけですよ。そういったものであるからニコンF50ミリのコダックローム白黒写真、これは全部、今だとはるかに容易にできるわけです。しかも望遠と広角ズームを動かしてできる。かつてはこれを動かそうと思っても、標準を一度取って、そこにまた新しく入れるって(いう作業を)、これを撮りたいと思ったときにやっていられないわけですよね。本来人間の目はですね、広角でも望遠でも自由に目は使えているわけです。ところが写真の場合には、広角なら広角、望遠なら望遠としか使えない。ズームレンズの場合にはそれを付けたり外したりしないですむということです。それから私が写真を撮った時には、露出がどうだとか、シャッターがどうだとか、みんな自分で決めなくちゃいけなかった。今はみんなカメラがやってくれるわけですよ。ここシャッタースピードいくつにしとくだとか、逆に絞りをいくつにしておくかとか。やっておけば後の方はみんなカメラがやってくれると、はるかに便利だとということです。もう1回、やり直したいくらいですけどね。バンコクだとか、かつて行った村だとかに、カメラ持って行って、また撮りたいという気持ちはあったわけですね。でも腰を悪くして動けなくなっちゃったから今はほとんど諦めているわけですけども。

末廣:

今、その時のフィルムはどこに保管されているんですか。コダックで撮られた写真のフィルムは・・。

友杉:

撮ったフィルムはその辺に置いてあります。

岩城:

ポジですかネガですか。

友杉:

カラー写真のほうはね、本に使いましたけども。写真集にね1。河出書房新社は全部、フレームの枠から外しちゃって写真をとるわけね。

岩城:

なるほど。ネガでくっついているやつを切って(使うのですね)。

友杉:

1枚1枚写真をはさんであるわけです。本にするときはピントをよくするために、とっちゃうわけですね。とっちゃった後をそのまま直さないで戻してきたわけです。そういうことから、使えない、カラー写真のフィルムがあるわけです。あれだと工夫して、映写機を使ってスライドにしようと思ってもできないわけですよ。これだけの大きさしかないから。

岩城:

ただスキャンはできますよね。

友杉:

それでその写真ですけども、バンコクに行くときに写真を撮っていました。「北部の中心地 バーンランプー」(*『図説 バンコク歴史散歩』p. 44~)からずっといって「庶民の暮らし:バーンモーまで」(p. 54~)という、これが今日話したところの町の情景です。「バーンランプー」は44ページだけど、そのあと「庶民の話」が54ページであって、その最初のところが「タナオ道路」(の話)で、バーンランプーから道が出てくるところというのかな。それから両脇にラーチャダムヌーン(大通り)、あの棟割長屋ですね(*p.54に写真掲載)。クラウンロイヤルプロパティ(*王室財産管理局)の所有するものです。それからこれが ラーチャダムヌーン道路のところが、コークといって牛のつなぎ場といったところですね。そのあと57ページの絵の下の左側(の写真)が水路です。この水路は今はもっと汚くなっているわけです。それから58ページのサーンチャオ・ポースア(*中国廟)は今でもにぎやかで、中のほうはろうそくや線香でもうもうとしています。隣の市場は、みんなよく行ってだべってたりしている市場で、いまはかなり寂れていますね。今はスーパーが盛んになってきましたから、その分衰えてくるわけです。その下の59ページの左(の写真)ですね。これが昔の宮殿の跡ですね。この外壁だけ残っていると。宮殿そのものは無くなっちゃっていて、今は長屋になっています。ただ、これがですね、ラーマ5世当時の建築の好みだと言うんですが、岩城さんそのあたりどうですか?私は、よくよくわからないんですけど。

岩城:

美しいなと思いますけど。

友杉:

今でもありますか?

岩城:

あります。これだけ残っています。

友杉:

それからその右の方が昔のジュエラー(jeweler、宝石・貴金属職人)で、ドイツ系の人ですかね(*ドイツ人貴金属店)。その下(の写真)が小学校の建物の一部です。左側が確か、かつてのパレスの跡だと聞きました。

その次のページの60ページの一番上がこれまで何回か出ている棟割長屋ですね。今はドアも閉めていて、上に窓がついているんですけどもそこも閉まっているところもありますから、西日が差すと相当暑いと思いますけどね。ただこれが現在では一種の社会福祉政策になっているわけです。安いから。これが低所得者に向いているというわけです。そしてその下の段の右がプレーンプートンの路地の棟割長屋ですね。下に植木がいっぱいあって、植木をよくみんな好んで、家の前に置いております。左が靴職人で、タナオ辺りはかつては靴(作り)が非常にさかんだったわけです。今と違って、靴は、こちらが何号であちらが何号というように出来合いのものではなくて、みんな自分の足に合わせて作る以外なかった。そういう時代がありましたから、その時にこの辺は、靴(作り)が盛んであったと。その下(の写真)がタナオ道路であって、ここでカーオニアオマムアンなども売っているわけです。今でも売っていると思います。ここでは、「サーンチャオポースア(*中国廟)」はとか、「サンパサート・スパキット門」とか、「靴職人」とか「路地の中」という話の説明をしています。次のページの62ページが質屋ですね。今でも質屋はあるわけですけども、ラーマ5世時代も質屋があって、金に困っているときに便利な場所です。同時に、警察にとっても便利な場所であって、ここで警察から常に連絡が行ったりとか見張りがあって、ここの質屋の質ぐさですね、そういうもの調べているわけです。先ほどの本の文書の中にも、バンコクの文書で土地だとか泥棒だとか火事だとかという中に、これも1項目入っているわけですね。それからその下の右の方はラーチャボピットの大きな寺で、ここは道から壁まで広くて、よく年寄りの集まる場所になっています。その左がタンブリッジ(*タン橋)で、昔はものすごく女性の巷でよく知られたところと思えないくらい、今では閑散として静かです。63ページが道路に面したところで、新聞を眺めている雑貨屋ですね。なんとなく雰囲気があるんです。この本の中で「中産階級の興隆」(*P.64)って話をしましたけども、さっきの聞き取りで、年寄りの人でもどの人もどの人も、私の聞きとったところではものすごく苦労してお金を貯めて、子供に教育を与えて、そしてチュラーロンコーン大学とかタムマサート大学とかなんとかと、時にはアメリカに行って、そして帰ってきて中産階級になってというのをここでは書いているんです。中産階級が興ってくる過程の論文が書けそうなくらい、中産階級の人が子供の代、あるいは孫の代にそうなってくる。次のページの(写真は)バーンモーの、市場そのものは廃止されていましたけど、かつては建物だけ残っていたわけです。で、今はこの中が店舗や住居に使われている。それから左の(写真の)バーンモー道路のはずれのところですけど、棟割長屋に建築の化粧がされています。これがよくわからないんですけどね、いつの時代のどこの様式か。タイではないけども、ロンドンかどっかの真似したのかなという感じでいます。

岩城:

(この建物は)誰が設計したかわからないんですよね。

岩城:

次がプラヤーシ―の交差点だとかパーククローン・タラート(*パーククローン市場)の方に行くところの市場だとかです(*P.66)。いつも活気あるところですね。68ページは直角に上がって内務省だとか国防省だとかです。今はこのままありますかね。

末廣:

今もまだあるでしょう。

岩城:

68ページの写真にある、陸軍地図局は、今は全面改修中です。建物は全部残っているんですけど、改修中です。中を全部やり替えるんですね。古い建物はそのまま残しています。下の写真の軍の国防省はそのまま残って今も使っています。

友杉:

古くなるとこういうのがね、かつての威厳を示していて、建築物としても面白い、良い建築だと思いますね。

岩城:

これは壊さずにそのまま残っています。

友杉:

地図局もかつては何回も通っていろんな地図を買っていましたよ。今持っていればすごく良かったと思うようなのね。古い25,000の、新しいんじゃなくてもっと古いのね、ぱりぱりって壊れそうな地図も売っていましたよ。

末廣:

アジア経済研究所の昔の事務所に、僕が陸軍地図局で手に入れた大型の地図60枚くらいを置いといたら、引っ越しの時に中身を確かめないまま全部捨てたって言われました。1960年代から70年代の貴重なバンコク市街地地図です。

友杉:

19世紀の初めのバンコクの手書きの地図みたいなやつを、一部アジ研に寄贈したのがありますね(*ラッタナコーシン暦200周年を記念して、陸軍地図局が復刻した古地図の本を指す)。あれもここで買ったのかと思います。それからその次のページはサオチンチャーのところにあるヒンドゥーの寺院ですね。次の70ページにあるのはサオチンチャーの大きく撮った写真です。この寺院の祭りが71ページの上の写真です。この写真にあるように、板がぶら下げられて、それに3人乗って、ここで近くにあるコインを取るというのが、この辺に住んでいる人の1年を通じて最も大きな祭りの一つだったわけです。ものすごい人が集まったわけですね。これが危ないというんで三十何年かに禁止されて、それ以後開かれていないんです。

岩城

落ちて、結構な(数の人が)死んだといいますね。

友杉

それから左側がスタット寺の本堂のところにあるすごく優美な仏像ですね。ここはあんまり観光客も来なくて、静かないい所ですよ。このスタット寺と大伽藍ですね。ここにかつて通行人が糞便を置いて行ったと。そういう信じがたいような話。それからその次に72ページがバムルンムアン(道路)で右側がかつての古い(写真)で本当に直線に走っていますね。そして左(の写真)が現在です。基本的には同じであって、軒並みが均一に揃っていて同じ構えの家が並んでいるという、これ自身がミュージアムみたいに感じるところがあります。ほとんどこの辺は仏具ですね、お寺の中の仏具を扱っています。このバムルンムアン道路をずっと東の方に行くと、プラトゥー・ピーと言った死体門ですね。かつては人が亡くなると、死体はみなプラトゥー・ピーを通って外に出すということが慣習としてあって、そのためにプラトゥー・ピーが知られていたわけで、恐ろしい所ですね。そしてここを渡った向こう側にある寺院が死体の置き場ということで、コレラが始まると、ここにいっぱい遺体が積み重なったというわけです(*サケット寺)。もうひとつ死体が積み重なるのはサンペーン寺ですね。

この写真集ですが、最初に話したように50ミリの標準レンズで撮っていったものをまとめてこういう本にしたというわけで、これが景観観察の結果で、今いくつか説明したのはバーンランプーからタナオ道路ですね、それからバムルンムアンと。それからもう一つの固まりはサムペーンの方です。サムペーンからずっとシーロムの方へ行って、もっと行けばヤーンナーワーですね、そしてヤーンナーワーを出て潮州会館になるという道筋がありますが、この写真集は多くは中心部で、近代化の軌跡としての新バンコクは薄いです。それはおそらく作っている人の好みもあるでしょうし、旧バンコクは写真撮るところがいっぱいあったという結果だと思います。なんかとりとめもない話になってしまいましたけれども、バンコク研究といういのはそういう過程で進んでいって、バンコク研究の終わりは、写真集と『岩波講座・東南アジア史 第5巻』に寄稿した論文で終わるわけですね。タイ社会史が始まりで、終わりが今日話した歴史散歩と「バンコクの港市の変容」と、そうことになろうかと思います。でも、もっとやりたいことはいっぱいあるんだけども、腰を悪くしてしまってあまり動けない、というところですね。

脚注

  1. 友杉孝(1994)『図説 バンコク歴史散歩』、河出書房新社。