研究史聞き取りの会〜友杉孝先生(後編)〜

  • 3. 年寄りからの聞き取り

友杉:

そういうことでラーマ5世文書というのはすごく面白いけど、一人でやるのは到底無理である。今から思うとこれだけやって、他は何もしなくて、これで一つの本をまとめた方がまとめやすかっただろうと思いますね。こんな風に本の一部にだけ収めておくというとね、なんか「これなに?」ということになっちゃうのね。そんなことでラーマ5世文書について関わっていたということです。

その次にですね、年寄りからの聞き取りです。インタビューする場合には、あらかじめ何を聞くということ、そしてその質問についてもきちんとデザインしておいて、ふさわしい相手、インタビューされる人を選んでいく。そして選ぶ時もどこに何人、どこに何人、として選んでいく。それはそれとして、社会調査の標準的なやり方としてあるわけですけども、こういう(聞き取りを)やる時にですね、広がりをもってやる時に、そもそも何から選ぶのかという問題があるわけです。自分が戸籍表をもっているわけでもなしにね、それから何人いるかもわからないようなところでやる場合に、それは無理だということです。ということで、私は自分の知っている人から、つまり「あなたの知っている、あのタナオの周辺に住んでいる人がいたら教えてください」という塩梅で、知り合いから人づてに紹介してもらってアポイントメントとって出かけるということをしました。だからそういった知り合いを通じて知りあえる限りでしかできないわけです。あらかじめ社会調査法みたいなのにのっとって、ひとつの社会調査を行って、なんらかの結論を出していく。そういうことは望ましいわけでしょうけども、そういうことはできないわけであって、自分の知り合いを通じて話すことの出来る人から聞き取りました。話してくれなければしょうがないわけであって、「いいよ」と言ってくれる人だけと話すという、ある偏りだとか、恣意性というのはどうしても避けがたいわけですね。

末廣:

でも、それで代表を選んで、サンプルで普遍性とか代表性(を検討すること)が目的じゃないですよね。だから構わないと思うんですけど。

友杉:

でもそもそも、サンプルがないわけね。タナオでどれだけの人がどこに住んでいるかもわからない状態から始まっているわけで、そして北のワットボーウォンからずっと道を下って行ってパーククローンタラートと言っているような河口のところの市場まで行ったら人がどれだけいるのかとか、そこでどんな職業(の人)がどのぐらいいるとか全くわからなくて。まあ仮にですよ、あの道路の地図を自分で作ってみて、家を正確に何軒もプロットしてみて、何軒ごとに(サンプルを)とるとかしようとすると、膨大な手数がかかるし、そういうことをやっている余裕は全くないわけですね。

岩城:

これは午後にインタビューをしていたんですか。

友杉:

はい。なるべく年寄りですね。昔のことを聞きたいから。そういうことをやって得たものがこの本に載っているAからLまでです1。Mというのはね、さっき末廣さんが話してくれたサマイという運転手さんですね。彼は運転手でバンコクをみんな知っているわけですよ。しかもですね、結果論ですけどもAからLまでのね、タナオだとかバーンランプーだとかバーンモーとか、というところの人は、大抵中産階級と言われるべき人、中流階級というものであって、運転手さんだけがそうじゃない。彼は、もっと下の階層だと。だから話として、他と違うのが面白いんじゃないかと思って入れたわけです。その運転手さんを入れると全部で13人についてここに書いた。だから、この13人が、あるいはこの12人が、タナオやその他の所を代表すわけじゃ決してない。しかしながら、そこにはそういう人がいるんだということは言えると思うのね。こういう傾向があるんだとか、そういうことは言えてもですね、これが代表するというつもりはないです。それが年寄り(への聞き取り)であって、この中の一つが前回に話したAというサンプルの人についてです2。会ってくれた人は、もう七十何歳の年寄りの女性ですけども、その人のお父さんはアーントーンから来ていました。アーントーンの農民だった人がバンコクに来て、バンコクのお寺で勉強して、そのあと最後にシリラートまで行って勉強したということです。シリラートで勉強したあとに、そこに書いておきましたけど何とかという宮さんのところへ行って仕える。ところがラーマ7世の時の緊縮財政で首になっちゃうわけね。首になっちゃってしょうがなく店を開いたのがタナオであった。タナオでもって医者と薬剤師とを両方やったらこれがものすごく儲かったわけね。一つのクーハ(kuha)というのかな、それを3つくらい並べて行って、人も雇って。子供の教育に非常に熱心であって、前にも話したけれど、子供はみなですね、チュラーロンコーン大学だとかタムマサート大学だとかを出て、そしてアメリカにスカラシップで行って、アメリカでPh.Dをとって、帰ってきてからは政府とか大学のしかるべき所に勤めるようになっている。その子供たちも皆そういうことをやっているから、そこで中流階級の人たちが戦後の担い手になっているという趣旨のことは、A(の事例)で話したわけですね。それと同時に73歳の年寄りですから、彼女の若い時のあの辺の状態についてですね。ものすごくみんな楽しく遊んでいたというんです。すぐ近くの王宮前広場でクローンロート、王宮前に行くときの水路がありますよね。あの水路がすごくきれいで、物売りが往来して、すごくにぎやかであったということです。その内の物売りの何人かは陸へあがってあの辺の道を売り歩いたと。そこでいろんなものを買うのが楽しかったとか、それからあの近くには、インド人かなんかの装飾屋があって、楽しい売り物であるとか。それから サオチンチャー(Sao Chin Cha)のインド式のお祭りがあるとか。ああいうのがものすごく楽しくて、ぐるぐる回ってお金を取るそうですけどね、それが縁起物であって、ものすごく人が集まっていたとか。あるいはあの辺にアヘン窟もあって、彼女のうちがプレーンプートン(Phraeng Phuthon Lane)で、アヘン窟もあって、そこでいつも年寄りの中国人がアヘンをすっていたとか。それからお酒を飲むところもあるとか。ところがいわゆる争いですね、酒を飲んで争うとか、そういうことは絶えてなかったというような話をしてくれていましたね。

そういった昔の話と重なってくるんですが、(前回の聞き取りの会で)話さなかったことですけども、タナオ道路をもうちょっと北の方に行ったところに、ワット・マハンナ-(Mahanna Temple)ってマハン寺がありますけどもその北の方に水路が一つあります。あれはかつてロート水路とセーンセープ水路をつなぐものであって、船に乗る楽しみがあったとところです。そこに住んでいる、これも女性ですけども、彼女自身が父親から相続したんじゃなくて、夫が父親から相続したけども、夫がもう亡くなっちゃった。でもこの夫の父親、つまり義理の父親も官僚だったわけですね。ところがラーマ7世の緊縮財政政策でもって首になっちゃった。そこで困って、あの辺で傷の塗り薬を売り出したらこれがものすごく売れて儲かった。儲かったということでヨーロッパ風の洋式建築の大きな家を購入して、そこに住んでいたというんです。その義理の娘は赤十字社とかそういうのに奉仕してボランティアやっているけども、特に働いてはいない。当時まだあそこの運河(canal)は大変綺麗で、みんな遊んでいたとのことです。あの辺のタナオの通りではマンゴーが茂っていて、バンコク中に知れ渡っていたそうで、タナオ・カーオニアオ(*モチ米の上に完熟したマンゴーをのせた、タイの代表的なスイーツ)と言ったそうですよ。そのタナオ・カーオニアオを買いにみんな来ていたという話を楽しくしてくださいました。

末廣:

果樹園があったということですね、あのあたりに。

友杉:

あの辺で凧揚げしたりですね。

岩城:

王宮の前でですか。

友杉:

はい。そして子供たちが楽しく遊んでいたけども、自分たちの子供の代になると、みんな親の家にいないで郊外に行っちゃった。ということで今は寂しくなっているという状況です。それからもう一つ、別の人もおもしろいんです3。この人はバンコク生まれです。しかし両親が中国人なわけね。両親が中国人で自分はバンコク生まれだけども、3歳の時に両親の里にやられた。ところが両親の里の中国に戻ったら、国民党による弾圧にあって、非常に苦労したというんですね、中国で。そしてその結果シンガポールに逃れて、そしてテーラーですね。裁縫というのかな、テーラーの修業を積んだ。そのあと、バンコクへ戻ってきたけれど、ピブーンの中国人の職業制限があって、ここでもまた苦労するわけです。その後自分がバンコク生まれだと証明する書類が出てきて、テーラーでもって大儲けしていくわけです。一時はワットアルンのところでリヤカーで野菜引いて売っているような生活していたわけですけれども、テーラーで大儲けしました。なぜかというと当時はまだ男子の服装はチョーンクラベーンというもんぺみたいな恰好だったんですね。ところが彼がテーラーを始めた時に、(タイに)西洋式のズボンが入ってきたわけです。そうするとチュラーロンコーン大学とかタムマサート大学の学生はみんなそっちにいっちゃうわけね、新しい方にね。そういうことでものすごく店を広げた。一時は店の雇人だけで52人いたといっていました。でも布をカットする人は自分だけにしていたの。そしてラジオのコマーシャルの中にも(広告を)いれたってわけです。そういう風にテーラーが儲かった。流行るようになったら店を引っ越して、ワット・スタット(Suthat Temple)というお寺のすぐ前のところに、お店を開いた。スタット―ティートーンで店を開いたら、学生がたくさん(お客として)来た。ラジオのコマーシャルにも登場した。この人はね、山っ気もあって、店は息子に任せて、南タイの鉱山に手を出すわけです。だけど鉱山に手を出したのが失敗して、ある程度赤字を出した。その後ですね、Stock Exchangeですね、株に手を出した。話によると100~500くらいのものを(買ったら)、それがばーっと上がって5,000とか6,000になったっていうわけですね。それでぼろ儲けしたわけです。そのあと息子の方は、店を任されたけども雇う人がいなくなっちゃって、廃業しちゃうわけです。でも株は儲けているから、その株でもって今度はティートーンのところも売ってしまって、バンコクの中のディンデーンだとか、サートンに引っ越すんです。最後に引っ越したのが郊外のラートプラオです。ラートプラオで一番末の子供と暮らしている。だけども大変、仏教に対する信心深いということで、末の息子をスタット寺で得度、坊さんの修業に出すわけです。今は自分の家に住んでいるけども、いずれ適当な所にマンションを造るというまた儲ける夢を描いているという人ですね。この人の子供は9人いて、大体カセサート大学だとか、その他、チュラーロンコーン大学だとかそういうところに進んでいる。中にはフィリピンに進学する人もいます。しかしみんなアメリカでマスターだとかそういうものとってきて、帰ってきて然るべきところに収まっていると。自分では中国人出身であることをよくわかっているから、タイ人となるようにつとめるということも話をしていましたね。そういうおもしろい人物ですね。ティートーン(Ti Thong)にいたからタナオ(通り)に近い所ですね。

それから同じくですね、中国系の人でやっぱりティートーンの文房具屋さんをやっている人ですけどね、両親は中国から来て、ナコーンチャイシー(Nakhon Chaisi)に精米所を開いて、自分もそこで育ったわけです4。兄弟はそこにいるけども、この人は精米所のごみというのかな、それが喉にアレルギーとして働いて、(精米所の仕事が)できないということから、兄弟と同じように精米所で働くことを辞めて、ヤオワラートに出てきたわけね。ヤオワラートで雇われている間に、プリンティング(printing:印刷業)ですね、それに興味を持って、プリンティングの会社をティートーンに興したわけです。最初はものすごく大変で、全部自分でやるのが大変だったけども、そのあとですね、ティートーンは官庁街に近いわけですよ。官庁街に近いんで、税務署のデパートメントオブタックス(Department of Tax) とか、税務署関係の(注文)をいっぱい受注する。それと同時に印刷するだけじゃなくてピンだとかクリップだとか、いろんな文房具ありますね、文房具も輸入して同時に売る。そういうことで財を成していくわけです。店の方も自分ひとりじゃなくて兄弟の子供を雇い人としてリクルートしていくわけです。子供もやっぱりアメリカとかにやって、学位を取って、官僚になっていく。同時に、ここで面白いのはですね、この人の場合、娘もアメリカまで行ってPh.Dまでとって、それからまたフランスへ行ってフランス料理を覚えてきて、ティートーンのあたりでこの娘がフランス料理の店を開いた。フランス料理の店も官庁街が近いからお偉いさんが来て結構流行っているというわけですね。それからもう一人ここでは面白い変わった人がいて、これまではチュラーロンコーン大学とかタムマサート大学とか、あるいはアメリカに行って学位をとることがあるけども、マヒドン大学を出て歯医者になっている人がいますね。

こういった話をやっているときりがないんですけども、もうちょっと2、3、話をしておきます。今までは非常に経済的に貧しい状態の人が成り上がっていったという場合が多いんですけど、今度は上から落ちてくる人がいるわけですね。それはですね、女性の方ですが、おじいさんがものすごく(位の)高い人で、ラーマ4世の兄弟であるから、ラーマ5世は甥になるわけですよね5。ピルムブーラパーというんで今我々がブーラパー(Burapha)と言っている所ありますよね?かつてキング映画館だとかクイーン映画館だとかあったあのあたりがブーラパーです。

末廣:

ワンブーラパー(Wang Burapha)ですか?

友杉:

はい。おじいさんの時代に「ワンブーラパー」といっている所です。パレス(Palace)ですよね、大きなパレスをあそこに持っていたわけです。で、ラーマ4世の兄弟であって、ものすごく権力があって大きな屋敷を持っていて。なぜかというと中国人に対する備えだったっていうわけですね。ワンブーラパーがあって、中国人の商店街の備えになるわけですから。

岩城:

だからワンブーラパーは南にあるんですね。

友杉:

そうです。おじいさんが、そのワンブーラパーの主であったわけですね。ところが当時ものすごく女性がたくさんいたわけで、正式な妻と、パンラヤールワンとミヤノーイ(:側室)とかといろいろあるわけです。それが膨大な数がいて、そのためにね、でっかい宮殿も(彼が)亡くなった後はみんな分けられていって、そして売られてしまったわけですね。さらにその中のパンラヤールワンですか、摘出(てきしゅつ)の男子の息子と。それもまたものすごい数の女性がいると、さらに少なくなっている。語ってくれた人は、息子の何人かいる女性が生んだ子供なわけです。そのことから生まれた時すでに母親から離されてしまって、外に出されているわけですけどね。母親とも成人するまでは会えなかったし、正式な場所で会うことはない。そういったことからですね、すでに2代、つまりワンブーラパーのブーラパーピロムですけどね、2代あとになると土地も何もないというような状況であるけども、学校だけはチュラー大(*チュラーロンコーン大学)をでているわけです。チュラー大を出て、そこでマスター(*修士号)をサイコロジー(psychology)でとって、それによって大学卒業後はですね、学校の教師として稼いでいる。そして夫もですね、しかるべき人を選んで、航空会社のお偉いさんということ、そして郊外に住んでいます。それで子供はアサンプション(*アサンプション大学)だとか、何とかテクノロジーというところへ行ってしかるべく勤めている。これが上から落ちてきた人の中流家庭というところですね。タイではものすごく権勢を誇って大きな財産を持っていても、子供がたくさんいる場合には分割されて長続きはしないわけですね。

末廣:

女性でもですね。女性がいても、女性の側室にみんな分けていくんですね。

友杉:

分けちゃうね。それからムスリムについても触れておきます6。私がインタビューしたのは、バーンランプー(Bang Lamphu)のですね、スラオ(Surao)というソーイ(*路地)がありますね。ワット・ボーウォンニウェートの反対側のところですね、広場があってワット・ボーウォンニウェートがあってその反対側。そこにはパッタニー(Pattani) という道路もあって、パッタニーは、あの南タイのパッタニーの(名に由来しています)。19世紀はじめに戦争によって連行されてきたような人たちがあの辺にいっぱい住んでいるわけです。その中の家というのもスラオの、その本じゃなくてもうひとつあっちの本(*『図説バンコク歴史散歩』)です。

岩城:

女性が写っていますね。

友杉:

これですね。こういうところです7

友杉:

これがスラオのソイです。これから話すムスリムの人たちはここに住んでいるわけです。

岩城:

チャクラポン(通り:Chakapong Road))ですか。

友杉:

そう、チャクラポンですね。

岩城:

トゥックディンじゃなくて、チャクラポンの方ですね。

友杉:

これです。

岩城:

これ、すごく細い。

友杉:

大体ここ(に住んでいる人たちは)は19世紀の前半にパッタニーから移住してきたというわけです。かつてはあの辺の水路もですね、大変綺麗であって魚が取れたりエビが取れたりして、食糧になっていたというわけです。時にはですね、飲む人もいたくらい(綺麗だった)。

岩城:

川の水をですか?

友杉:

川の水をです。親の代からここでは金銀細工をやっていたというわけです。そこで細工物を作っているんですね。面白いのは日本人が来てですね、デザインについて教わったという話も聞きましたね。

末廣:

金銀細工で?

友杉:

元々は、朝早くだとか、ランプというのをずっと使っていたけども。すぐそばがワット・ボーウォンでありますけども、その手前の広場で食い物だとかいろんなものも売っていたし、ヨートマーケット(Yot Market)といったのが、ありました。今はそれがデパートになっちゃったわけです。ここはまた享楽の地であって、川向うの方はですね、売春街があったり映画館があったりなんやらかんやらあって。そこはですね、ジゴロというんでしょうかね、そういったよた者というのかな、ジゴロが支配していたところだというのが、かつてのバーンランプーであった。

末廣:

ナックレーン(nak len 暴力団ではなく、地元の親分)ですか、タイ語で。

友杉:

ナックレーンですね。ここも随分ひとがいなくなっちゃって、どこかほかの方に、郊外の方へ行くとムスリムの人が多く住んでいる所がいくつかありますよね、そういうところに移住して行きました。ただ今でもですね、あそこにはモスクがあって、そのモスクを中心にみんな集まってきています。もう一つ特徴的なのは、仏教だとかキリスト教だとか(宗教)間の諍いというか、争いというのはかつて全くなかったと。今もないわけですけどもね。そういった争いの歴史は全くないということも話としてありました。

岩城:

今の方が、ムスリムでもシーア派とスンニ派が結構、仲が悪い気がします。スンニ派の中にはシーア派を快く思っていない人もいます。シーア派の方がマイノリティだから。先生がインタビューされたころよりも今の方が、争いはあるかもしれないですね。

友杉:

これはジュエラー(jeweler, 宝石・貴金属職人)を生業としているんです。貴金属の装飾品です。もう一つはバーンモー(Ban Mo)というところもですね、貴金属装飾のさかんな所です。バーンモーには廟があります。それからバーンモーの3階建ての大きなマーケットの壁だけが残っています。

岩城:

今はもうないんですね、残念です。

友杉:

壁だけがあったんですけど、あのあたりに貴金属装飾業の人がたくさん住んでいて、そして装飾の人たちの家の一つ裏側に、次に話すインタビューの人がいるんですね8。それは女性なんですけども、あの辺(の土地)はみんな王室の財産局のものですね、ところがインタビューしたうちだけはそうじゃなくって自分のものだと。なぜかというと、ラーマ5世の時代に先祖に国王から下賜されたものだと。初めて聞いたけど。そのうちは代々内務省か国防省ですね、クラスワン・カラーホームだとか(*国防省)、もう一つはクラスワン・マハータイ、つまり内務省ですね。代々男はそういうところに勤めて高官、高い位の人になるわけですね。ところが、面白いのは話してくれたのは女性ですけども、彼女の兄弟もみんな政府高官なわけです。ところがみんなラートプラオの方へ引っ越しちゃっていなくて、その家には今は誰もいないそうですよ。そこでかつて使っていたいわゆる女中ですね、やっていることは水くみだとか掃除だとか洗濯だとか食事の用意だとか、そういうことなんですね。だけどその呼び名はタートと言って奴隷なんですね。前回、村の話をした際に話しましたけども、タートというのがね、確かにヨーロッパのサーバント(servant)と同じかあるいはもっと楽だとか言う外国人の観察が19世紀にあるけども、タートというものがそういうものであってみれば、楽なんでしょうね。つまりタートといって鎖でつながれるのは論外としてもですね、炎天下でもって綿花を栽培するだとか、そういったものとは全く違う、と。そういったタートという使い方、改めてラーマ5世から土地を下賜された家で知ったわけです。

末廣:

この時のタートというのは、債務関係がある人ではなくて、女の人で普通のコンチャイ(*使用人)ですよね

友杉:

コンチャイです。

岩城:

タートというと、使用人みたいな感じで使われているということですよね。

友杉:

それからもう一軒だけ紹介しますと9、ワット・マハンですね。マハン寺の近くの水路に住んでいる人であって、ここもですね、成功したところでありますけども、昔話をして面白いのはやっぱりあの水路がきれいであって、みんな遊んでいたと。ところがその後ですね、南の方はですね、大体官僚が住んでいてみんな仲良く子供たちも遊んでいたわけです。ところが、その後、そこに住んでいる人がギャンブリングにはまっちゃって、それから酒を飲むとか、そういういうことで破産しちゃうわけです。それで売っちゃうと。その後にですね、廃品業者が入る訳です。廃品業者が家庭電化製品とかいろんなものを集めてきて積み上げるわけです、家の前に。それが川の中に入っちゃって、綺麗な水路が見る影もなくなってしまったと。今ではもう逃げ出したくなるくらいのものであると、いうような話をしてくれた時もあるわけです。以上、大体話をしてもらったところのかいつまんでのことです。

末廣:

さっきのバーンランプーの国王から借りるという時の土地ですけどね。これは英語でPrivy Purse Bureaですから、プラクランカーンティーですよね

友杉:

プラクランカーンティーです。

末廣:

そのあと先生が行ったころというのは、クラウンプロパティビューロー(Crown Property Bureau: 王室財産管理局)に変わっていたんですか?土地は(の所有者は)どうですか。

友杉:

そうですね。クラウンプロパティビューローの方も何回か訪ねているんですけどね。そこの資料を見ることによって、あの辺りの土地所有関係をもっとですね、正確に知りたいと思ったけれどこれは無理だったな。

末廣:

クラウンプロパティビューローは、通常は年報も営業資料も公開していますよね。僕も行こう行こうと思って行かなかったですけど駄目だったんですか。

友杉:

僕はだめだったね。あそこの局長かな、課長か知らないけども、タイの歴史でもって名を挙げた人がチーフとしていたんですけどね。今名前が出てこないけど非常に有名な人ですよ。バンコク初期における社会組織について、立派な本を出している。

末廣:

アキンさんですか。

友杉:

そう、彼ですよ。彼はバンコクスラムについても厚い本を、どこかの大学出版会で出してますね。

末廣

Early Bangkok時代の社会組織という、コーネル大学出版会から出たものですね10

脚注

  1. Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo, pp.157-210.
  2. Family A について。Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo, pp.159-167.
  3. Family Cについて。Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo, pp.170-175.
  4. Family Dについて。Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo, pp.175-179.
  5. Family Eについて。Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo, pp.178-180.
  6. Family Gについて。Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo, pp.185-189.
  7. 友杉孝(1994)『図説バンコク歴史散歩』河出書房新社。P.45
  8. Family Kについて。Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo, pp.195-197.
  9. Family Lについて。Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society, The Institute of Oriental Culture, The University of Tokyo, pp.197-199.
  10. Akin Rabibhadana, 1969. The organization of Thai society in the early Bangkok period, 1782-1873, Ithaca, N.Y. : Southeast Asia Program, Dept. of Asian Studies, Cornell University.