第25回日本タイ学会・定例研究会 友杉孝先生研究史聞き取りの会

● 経済人類学との遭遇と都市研究へ

友杉孝先生 :

では時間もないので、先ほどの話の続きとして経済人類学との遭遇ということがあるわけですけれども、なんで経済人類学になったのかということは、深い理由というよりもむしろ、偶然的なことででした。本を読んでいて、玉野井芳郎先生の論文で「経済は社会の中に埋め込まれていた」と、つまりimbeddedということがすごく衝撃的で、市場経済というものを対象化して見せるというその視点が経済人類学にあるんじゃないかと考えたわけです。この「経済は社会に埋め込まれていた」ということが人類学を勉強するきっかけになった。そしてある意味、ちょっと恥ずかしい言い方ですけれども、恋に落ちたっていう感じなんですね。何か魔物に惹かれて行っちゃった。この当時の私の状況からいくと、新しく経済人類学を勉強する余裕など全くなくて、さっきお話したように目が失明するかどうかというようなことも言われたような時代に、なんで経済人類学ができるかって、そんなことはできるわけないんですよ。合理的に言えば。でも、その合理的なものを超えたものが恋にはあるんだね(笑)。そういう意味で、恋と称する。敢えて言いますけれどもね、魔物に惹かれて経済人類学にはまっていった。

そして経済人類学にはまっていったことが、スリランカ研究のきっかけにもなったということです。スリランカのゴールというところを対象にして、スリランカのモノグラフも書いた1。そこでは調査の焦点を商品においてみようとしたわけですね。商品の、市場で売っている生鮮食料品とか宝石とか貴金属とかいった商品は、全く違った系譜に属するのではないかと。貴金属だとか宝石などの威信財の社会における希少性は、社会的ステータスの希少性と対応しているんじゃないかというような見方をして、そしてそういうことから、資本主義の発展は生鮮食料品の市場が拡大したというよりは、貴金属や宝石といった社会的威信財に由来するものが多いのではないかというようなことを考えたわけです。それは先ほど話した大塚久雄さんの基礎理論からとは反対側の真逆の考え方ですが、そういうことを考えたわけです。

さらに、外国を対象にして地域研究をやっていると、日本というものは自明でなくなっていくわけですね。なんで日本はこうなのか。明治以降の日本の経済発展を可能にした1つの要因として、水田の高い生産性を挙げられるわけですが、何故そういうことが可能であったかということにはまり込んでいって、玉城哲先生について水利社会研究を始めた。これは国連大学の委託ということでアジ研がこのプロジェクトを推進していって、林武さんが総合プロデューサーか何かで、多田博一さんが窓口になっていた。そして日本各地の、例えば岡山県の溜池地域の印南町だとか、佐賀県筑後川流域の千代田町だとか、長野県佐久地方の和田村だとか、北海道の深川町だとか、そういったところを対象にして研究した。

それについてそれぞれモノグラフを書いて、国連大学からアジ研が出版している2。当時古島敏雄さんの『土地に刻まれた歴史』3などを愛読しておりました。

末廣昭先生:

すみません、玉城哲さんのたまきのきは城の方です。専修大学ですね。

友杉孝先生:

玉城哲、たまきで、城であきらが哲です。哲学の哲です。

末廣昭先生:

専修大学ですよね、彼は。

友杉孝先生:

専修大学です。

末廣昭先生:

それで事務局は、多田さんじゃなくてたぶん平島さんだったと思うんですよね。私もメンバーだったので。

友杉孝先生:

あ、そうか。全部のプロデューサーが林武さん。

末廣昭先生:

ああ、林ブーさんだった。

友杉孝先生:

時間がないのでもう端折りますね。

バンコク研究ですが、経済人類学や日本研究をやっていると、当時の日本では都市研究が大きな潮流になっていたわけですね。そして東京というものも、広い田舎だとか何とかって罵倒されていたけど、東京って意外と面白いんじゃないかというような話があって、それで前田愛さんの『都市空間なかの文学』4だとか陣内秀信さんの『東京の空間人類学』5とかヴェネツィアとか、それから山口真佐夫さんもいろんな論文だとか発表されて、都市研究が盛り上がっていた。そういうのに乗って、経済人類学を始めたわけですね。前田愛さんは当時立教大学に勤めておられましたけど、同じ文学部で、ちょうど教授会の向こう側に座っていた人なんですけれども。前田さんにいろいろなことを聞くべきだったけれど、いろいろなことを勉強して前田さんにこういうことを聞こうと思っているうちに、前田さん病気で亡くなってしまったという事情があります。

そういった状況で、バンコク事務所に駐在してみみないかという話が出てきて、日本学術振興会のバンコク事務所に2年間勤務することになりました。1991年から2年間。学振も大きな事務所で、部屋がいくつかあったから、学振飯店と称してバンコクに来る日本人研究者に泊ってもらっていました。

ここでやったことはまずパソコンを覚えるということ。これがものすごく苦労してですね、サハビリヤとかという会社の講習会があるので行ったら、言ってることが何言ってるのか全く分からなかったんですね。例えばデリートだとか、エンターだとか、何のことかが分からなくてね。そして講師に「あなた、後で残ってください」って言われて、残って勉強した。ものすごく苦労して、何やらできるようになって、文章が書けるようになった時に、バンコクは当時停電がものすごくあったわけです。1日やっていたことが、夕方パーになるということがね、何回かあって(笑)。雷が鳴ると駄目になるのね。

ともあれパソコンを覚えた。その2年間の滞在中にやったことは3つあって、1つはサームセンの国立文書館でラーマ5世文書を写すこと。ラーマ5世文書の中でもコラタナコーシンといわれている中核部分についての記事があると、それをどんどん拾い出してきて、その文書を、土地だとか、それから道路掃除だとか、あるいはプーラーイっていう、そういったものだとか、あるいは火事だとかに分けて、写し取っていった。

それからもう1つは、コラタナコーシンに住んでいる年寄りを訪ねて行って聞き取りをやっていく。何回も聞き取りをやっていって、かつてその人たちが若い時どうであったかということを教えてもらうということ。3つ目がバンコク全体を歩いて写真を撮って歩く。写真に歴史を語らせるということができないかっていうのがねらいであったわけです。

そういうことで、その3つを柱にした仕事をして、日本に帰ってそれを本にしたのがReminiscences of Old Bangkokという、「バンコクの思い出」といった本を1993年に出しております6。ちょうど東大を定年退職する歳でこれを出したということですが、今から言うとこの本は大失敗であって、特にprefaceが悪いんですね。 Prefaceに、モザイクパターン、’a mosaic pattern of views’ ということがあります。このモザイクパターンというのは、さっき言った3つの要素がモザイク的にあって、カレイドスコープ(注:万華鏡)のようにくって回せば次の面、もう1つ回せば次の面に移る。バンコクの景観だとかラーマ5世文書だとか、老人の昔語りというのが、それぞれモザイク的に集まっているといったつもりだったけれど、書いている途中に都市はそもそもいろんな異なる要素の集まりでできていて、モザイクじゃないかというような考えがあって、それと混同してしまったんですね。書いている途中で。だからこのprefaceは意味が不明瞭な文章になっちゃっていて、自分でも読めなくなっているわけね。

そうではありますけども、結局その3つの柱というのは、それ自身としては意味があると思うので、20世紀のバンコクを見る場合の1つの資料集、材料としては使えるんじゃないかというのは今思うわけです。だから今から思うと、こんなモザイクパターン何とかって言わなくて、コラタナコーシンの景観を詳しく調べたものを基にして、その土地に関係している文書だとか、それから聞き取りだとかをそこにはめ込んでいけば、コラタナコーシンを対象とした1つの歴史のノンフィクションみたいなものが出来上がったんじゃないかと。その方が読めるものになっていただろうと反省しております。

それからもう1つこの資料についていえば、オールドフワンナコンロードとバムルンムアンロードの景観をそれぞれ記述しています。郵便台帳が1883年に出ていますが、私がこれを利用した最初は、ものすごく怖い本で、持つとパラパラと壊れちゃうような、酸性紙の本だった。その後これが印刷されました。2冊本で、ラーサドーンと言われる分厚いのと、それからもう1つ、カーラーチャガーン7。この2つの本と私が見た最初の図書館での本とが、全く同一かどうか確かめる機会がないんですけれども、読んでいて共通しているとは思っています。この郵便台帳っていうのがそもそもどういうものかっていうことの批判的検討はまだなされていなかったわけですけれど、京大の坪内(良博)さんが石井先生と共にこれに関心を持って、京大の雑誌に出して、その後20何年か経って『バンコク1883年』という本を京大出版から出しております8

坪内さんの主たる関心は人口問題です。この郵便台帳の面白いのは、郵便の配達人が使う台帳ですから、それぞれ家の特徴が、高床であるとかそうでないとか、何かボロボロの壊れそうな家だとか何かってみんな書いてある。だから都市景観を見る上においてもこれは面白い材料だと思うんだけれども、なかなか十分に利用できない。郵便台帳の番号と現在の番号はもちろん違っているでしょうし、面白いけどもなかなか使えない。

それからこの文書を読んでいても面白いのは、土地だとか土地に対する係争だとかいろんなことが出てくる。ラーマ5世の時代には、ムスリムだとか中国人だとかインド人だとかみんな書いてあります。それがフランスとかイギリスのproteje、つまり保護民になっている。まだ自主権が確立していなかった時代ということです。

土地についてはそれまで現実的にそこに生活していたので、伝統的には土地の保有権はあるわけですけれども、土地証書が発行されると紙を持っていなければ権利なしということになってしまうので、自分の権利を確認するために役場に行く。役場に行くと15日間か何か掲示されるわけですね。その時に兄弟の子供だとか何かが出てきて、うちにも権利があるんだと言う。で、ここで争いになっちゃうわけですね。そういうのがいっぱいあります。

それからプラクラン・カーンティーといわれている、王室の財産局がまた大きく関係している。所有権のはっきりしないようなところはこのプラクラン・カーンティーが集めていって、王族だとか高級官僚だとかの屋敷地を使っていくので、プラクラン・カーンティーは、都市のエステート・エージェントみたいな感じもあります。

それから面白いのが、道路の清掃。道路の清掃って当たり前じゃないかと思うけれども、当時はみんな自分のところの食料のカスとかを道に捨てていたわけですね。だからものすごく汚くて臭いわけです。その上、サオチンチャーの近くにおいては、豚を飼っていて、豚のエサやそういうものがそこに放り出されているとか、それからバムルンムアンロードにおいてはインド人がヤギを飼っていて、乳をとるんだと。ヤギの乳。そのエサがまた道に放られているとか、それからひどいのになると、馬が死んだと。馬の死んだのを、ちゃんと深く掘って埋めれば良いけれど、浅く掘ってやるからそれが腐っちゃってもう大変になるとか。それからスタット寺院、サオチンチャーのところにある大きなお寺ですけれど、その境内は通行人が勝手に糞便をしているらしくて臭くてかなわないとか、そういう類のことがいっぱい出ていて、これが当時の状況を知るには面白い。

それから不審な死に方、行き倒れですね。大きな寺院の境内が、行き倒れの場所になっていた。何かのことで自殺する人とか、アヘンで死んでしまうとか。それからこの時代から電車が通るようになって、電車とか自動車の事故死っていうのが生まれて時代を表すとか。ポーンショップ、質屋については、盗品を警察に通報しているわけです。だからポーンショップは、庶民金融としてすごく有用なんだけれども、同時に警察にとっても極めて有用なところであった。

それから、プーラーイっていうのは、暗闇に隠れていて、通行人を襲って、所持品を奪う。その当時はまだ街路灯はほとんどなくて暗闇でしたから、そこでひったくりがすごく流行って、夜歩くのは危険であると。それから火事もまた多くて、火事はやっぱり、延焼がすごく怖かったわけですから、料理の時の不注意によってその火が天井に移っちゃったというのから、意図的に燃やしちゃうという、放火ですね。そういうものがあるといったことが、行政文書の中にいっぱいあって、それぞれみんな、いつどの場所であったかということが書いてあるから、それを見て歩く景観の中に適当に埋め込んでいくと、1つの物語ができるんじゃないかと。

それからファミリーヒストリーっていうのは、これは仮にAから順番つけてAからMということでやったけれども、1つだけ紹介しておきますと、そのAっていうのは73歳の女性であって、父親は医者であって薬剤師であった。父親はアントーンの農民の出身で、母親は中国系の人であった。父はバンコクに出てきて、テープスリン寺院の学校を経てシリラートで医学を学んだ。そして医学を学んだ後、プリンスパーワサの宮殿勤務をしていた。ここで母となる人と知り合って結婚するわけです。ところがラーマ7世の時に、いわゆる財政緊縮があってクビになってしまうわけです。クビになってこのタナオ道路に薬局を開く。この薬局が、すごく流行ったわけです。流行った後、アントーンの父親の縁者とは段々疎遠になっていった。それから母親の方は中国系の人なんですけれども、中国系の人とは全く最初から関わっていなかった。父親は5人の子供があってものすごく教育熱心であった。

話してくれているAは長女なのですが、彼女は6歳でセントジョセフスクールに通うようになった。この学校は英語が有名で、授業中にタイ語を話すと罰を下されたというような学校です。その子供の時の思い出話として当時王宮前の水路は綺麗で、子供たちが水遊びをしていて、そこでまた小船を漕いでものを売る、野菜だとか果物だとか、お菓子を売っている人たちが往来していたと。お菓子を携えた人が自分の家にも訪ねて来たということです。近くには、靴職人の店がいっぱいあった。ペルシア人の刺繍で飾った衣装だとか、それからバムルンムアンロードには当時から物流屋もたくさんあったと。野菜だとか生鮮食料品やサオチンチャーのマーケットだとか、それからチャオポースースアのマーケットで買っていたと。

ティートーンロードには、金箔職人で、スタット寺院に参って金箔を貼るという職人の店がいっぱいあったけれども、今は名前だけになってしまった。それからミングワン市場は、縫製、縫うことが有名でそこでいろんなものを縫ってもらったと。住んでいたプレーン・プートン・レーンの棟割長屋は、全て王室財産局の棟割長屋で、多くは下層役人だとか小売業者に貸し出されていたわけです。そこの3つ区画がアヘン窟になっていて、人力車引きなどがそこで吸引していた。

お酒はあちこちで売られていた。警察は遠く離れたサムラン・ラートというところだったけれど、諍いはほとんどなくて穏やかであった。当時年中行事は子供にとっても楽しみで、サオチンチャーのブランコで高い柱の上にコインを置いて、それを動きながらみんな楽しんで見ていた。近くにはヒンドゥーの寺院もあって、そのヒンドゥー由来のブランコであるということですね。

父は教育熱心で、話してくれている長女の次の子供、2番目は息子でUSAの学校を卒業して歯医者になっている。3番目もUSAに行って外科医になっている。外科医になって、警察のホスピタルに勤務した。4番目はやっぱりUSAに行って建築家になって、鉄道局に勤務した。5番目が、これが女性でセントジョセフで学んで、そこを卒業した後スクンビットロードに土地を所有することになった。これは父の友人が債務の形(かた)に預けたものが流れて、この五女のものになっていた。当時スクンビットは水田や畑でみんな郊外になっていたわけね。それがものすごく安いから流れてこの五女のものになっていく。興味あることにこの5人のきょうだいはみんな独立して、経済的にも自立していて、そういうことで成人したあとお互いの往来はなしに、みんな一人ひとり独立した人間になっていた。

それから話してくれたAさん自身は、29歳で結婚して結婚の相手は元の使用人であった中国人であった。中国人は中国からタイに渡って来たわけですが、その中国人との間で5人子供ができて、その5番目の子供は出血性の熱病、どんな病気か分からないけれども、それで亡くなってしまった。長男はアサンプションスクールを卒業した後、農科大学で獣医の資格を取って、それも政府のスカラーシップでアメリカへ留学し、MAとPhDを取って帰国後農業大学の教授になっている。現在クルンテープブリッジの近くに住所があって、しばしば母親を訪ねてきている。2番目は女性でセントジョセフスクールを卒業後、タマサート大学の会計学を卒業した後大学に職業を得て、その後スカラーシップでUSAに行って、USAでMAとPhDを取ってそして教育学を専攻した。帰国後現在はタマサートの副学長になっているということです。

その次の子供は男でもってアサンプションをやっぱり卒業して、政府職員になっている。4番目は女性で弁護士を目指してラームカムヘン大学を出てそして法学専攻でアメリカに行って、政府職員になった後、帰国後に今度は裁判官になった。その夫は、セントガブリエルを出た後タマサートを卒業しアメリカでMAを取った後帰国後裁判官として活躍していたけれども、現在はシーロムのバンコクバンクで国際法の専門家として活躍し、彼らの住居はサムセンの夫方住居の敷地で、73歳の母親は時々ここへ行って孫と遊んでいるというような話です。

結局要約すると、アントーンの農民だった父親の末裔は、子供、孫になれば、アントーンの農民とは全く関係なくなってしまって、父の資産で高学歴でバンコクの中産階層の一員となっていくという過程が、ファミリーヒストリーとして語られていたわけです。そしてそこでは相互依存することのない自立した個人、あるいは家族から阻害されてしまった個人というものが浮き上がってくる。

しかし、成人した後みんな関係なくなっちゃうかっていうとそうではなしに、成人した後も何かの行事の時には相互に助け合うといった事例もあるし、またさっき話したようにバンモーの旧エリート官僚、このエリートは国防省の高官になったり、内務省の高官になったりしているわけですが、そこの家では女中はタートと言われているわけです。

そういうのが、聞き取りですね。そういった聞き取りと、さっきの文書と、それから景観という組み合わせで1つのものができないかと。それからもう1つ、東大定年後に出した本としては、『バンコク歴史散歩』が1994年に出ていて、これはバンコクの学振時代に、街歩きした時の産物であって、バンコクというのはものすごく急速に変化しているんだけれども、その中で歴史的なものが古ぼけてボソッと残っている。そういうのを発見するのはものすごく楽しいわけですね。そういった楽しみがあった。それがこの『図説バンコク歴史散歩』です9

それからもう1つ、岩波書店の『東南アジア史講座』というのが9巻あって、第5冊目は2001年に出ております10。これは、ポランニーだとかギアーツの交易港、経済人類学でいうところの交易港を手がかりに、バンコクというものがどういう風にできあがって、かつ変わっていったかということを、アユタヤを再考するという理想と共にここで記述したものです。

ということで、後の方はもう駆け足ですがそのバンコク研究はこういったことをやっていましたというわけです。

遠藤元先生:

どうもありがとうございました。せっかくの機会なんですけれどもちょっと時間が押していますので、さしあたり友杉先生から研究者聞き取りの1回目というのはこれでおしまいにします。おそらく先生、バンコクについてはまだたくさん写真をお撮りになっていますので、その写真も含めてより詳しい話をお話になりたいというのもあるかと思います。また次の機会にこういう場を設けたいと思いますので、ご了承ください。

ということで、第一部はこれで終了といたします。

(聞き取りの会ワーキングチーム:岩城考信、遠藤元、遠藤環、小林磨理恵、末廣昭[アイウエオ順])

脚注

  1. 友杉孝 1990.『スリランカ・ゴールの肖像: 南アジア地方都市の社会史』東京: 同文舘出版.
  2. 国際連合大学編『国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告』全90冊。
  3. 古島敏雄 1967. 『土地に刻まれた歴史』東京: 岩波書店.
  4. 前田愛 1982.『都市空間のなかの文学』東京: 筑摩書房.
  5. 陣内秀信 1985.『東京の空間人類学』東京: 筑摩書房.
  6. Tomosugi, Takashi. 1993. Reminiscences of Old Bangkok: Memory and the Identification of a Changing Society. Tokyo: Institute of Oriental Culture, University of Tokyo.
  7. 「バンコク郵便家屋台帳」(1883年作成、全4巻)のうち、第1巻 ”Tamnaeng Ratchakan”と第2巻”Ratsadon”。 1巻及び2巻の複製版(1998年にSamnakphim Tonchabapより出版)は、友杉孝先生よりアジア経済研究所図書館に寄贈されている。
  8. 坪内良博 2011. 『バンコク1883年: 水の都から陸の都市へ』京都: 京都大学学術出版会.
  9. 友杉孝. 1994. 『図説バンコク歴史散歩』東京: 河出書房新社.
  10. 斎藤照子責任編集. 2001. 『東南アジア世界の再編(岩波講座東南アジア史 第5巻)』東京: 岩波書店.