それから当時、農村社会では久馬(一剛)さん、京都大学、土壌学の人ですね、久馬さんやそれから高谷好一さんといった人たちと一緒にタイの南部や東北部を一緒に旅行しました。これは久馬さんの土壌採取が一番の目的なんです。タイの水田の土壌がどのぐらい栄養分があるとかないとか、痩せているとかいったことがテーマで、土壌を採取して回ったわけです。高谷さんというのは地形を見る独特の目を持っていて、私は何もしなくてただ通訳と案内だとかそういうことをやっていたに過ぎないわけでありますけれども、高谷さんと一緒に歩いていてすごく面白かったというか、勉強になりました。それについて高谷さんの論文がいくつか出ておりますけれども、これはみんな高谷さんが書いたものであって、私はほとんど一緒にいたというだけで、あまり貢献していません。現場で議論はしていました。
それからもう1つですね、調査旅行として口羽益生さんが東北タイ・コンケーンの調査を大々的にやったんですね。これは亡くなった水野浩一さんが最初に入って調べた村です。水野さんは、この屋敷地共住集団という1つの屋敷の中に、姉妹、両親、そういった血縁関係の、母方というか女性方の血縁関係の共同体というのがあると。これもあのタイが地縁共同体に乏しい締まりのない社会であるという議論に対する1つの反論という面があります。そういった屋敷地共住集団について発表した村に、口羽さんが入ってすごく厚い報告書を出している 1。東北タイのこの地域においては、「ハーナーディー」とか彼は言ってましたけれど、「ハー」って探すですね、「ナー」は水田、「良い水田を探す」ということが1つの移動の原動力になっているということを、ここで彼は提唱しているわけです。
口羽さんが社会学的な側面で、それから福井(捷朗)さんが自然科学的に、コメ、稲作ということからやっぱり分厚い本を書いています 2。だからコンケーンのこの水野さんの村というのは、水野さんが亡くなった後に2つ、社会学の本とそれから水稲栽培学というか、そういう本が出ているわけです。私も最初これに参加したんですが、漆にかぶれて、全く動けなくなっちゃった。初めての経験で、漆にかぶれるというのは思ってもいなかったんですけども、村の周辺の竹藪みたいなところを歩いているうちにかぶれたらしくて、足がパンパンに腫れて動けなくなっちゃって、結局私は口羽さんの本に何も貢献しなかったという残念な結果に終わっております。ただ私自身は、そういった漆にかぶれるようなところを歩いたおかげで、この村の人たちの、山野を領有し支配しているチャオという超自然的な存在に対する篤い信仰というものを知ることができて、後でタイのピー(注:霊や民間信仰の神々などを指す)といわれるものを考える上で、大変勉強になりました。
その次に、タイの農村研究で、Changing Features of a Rice-Growing Village in Central Thailand: A Fixed-Point Study from 1967 to 1993といったようなものが、これは出版はずっと後で、東洋文化研究所を定年で辞めて宮崎に移った後、あるところから「お金があるから本を出さないか」って言われて、それじゃあっていうので、「じゃあ出しましょう」と言ったら、「いやもうそれは話が違っちゃった」っていうので、何か奇妙な経緯で出来た本ですね。だからどこも出すところなくなっちゃって、ところがユネスコで幸いにして引き受けてくれた。ユネスコで引き受けてくれたからそれまで書いたものをそこに含めて、1つの本にしたというものです。だから、前半が1967年、後半が1993年といったものです。これは写真をいっぱい入れております。この写真でもってこの本の要約が分かるというぐらい写真をたくさんつけております。
最初に行った時に、これがパクハイっていうところの水田です(写真2)。パッと見た時に水田とはとても思えないようなところであって、近寄ってみると、この辺にちょっと黒くなっているところがあるのが、隣の人との境であるという。ご覧の通りですね、畦がないわけです。水を溜める畦がなくて、ボーっと一面、これが浮稲地帯というようなところです。浮稲っていうのは「カーオニーナーム」といって、「ニー」って逃げるということですよね。水が来たらそれに逃げてだんだん伸びていく。それからもう1つの言い方、「カーオクンナーム」といって、上っていく。水面が来ると、それよりちょっと先だけ穂先が出ている。水がこう増えていくと、それにつれて稲も伸びていくから、だいたい稲の長さは2メートル以上になる。大変面白いのは、ここでの洪水ですね。川から水があふれてここは水がいっぱいになっていく。水たまりがあたかも湖みたく見えて、湖の上に稲の穂先がチョロチョロある。これが乾季になると、水が減っていきますから、倒伏するわけです。倒伏した稲の穂先だけ刈り取っていく。面白いのは、これを見ていると、その後水牛や何かに食わしているわけです。ここはものすごく広くて、向こうが見えないぐらいあるわけですね。だから労働力がない。労働力はどうするかというと、ここの土地を耕作している人は、ノーイ川のパクハイのタールアといっている船着き場にいて、上流から出稼ぎに来る人とそこで会って、そこで話をつけて賃労働をやってもらう。その人たちはAさんのところをやったら次はBさんに行くという移動をしていて、このノーイ川に近いところに掘っ建て小屋みたいなのを作ってそこで過ごす。だいたいこれが2か月ぐらいかかるそうです。私が調査していた村のノーイ川で見ていると、この乗り合い船が目の前を通って行くわけです。それにこの時期になるといっぱい人が乗っていました。
後から思うんですけれども、こういった水田が、アユタヤ王朝の時には1つの経済基盤であった。それと、こういったところにおいては、土地をベースにした封建的社会関係というのはなかなかできにくいんじゃないかと思います。
末廣昭 :
土地に縛り付けるのは無理ですもんね。
友杉孝 :
こういうところでは、社会的地位は、直接的な労働力をたくさん保持するということです。この労働力を使って耕作して何かを売るというマーケットもないわけですから、結局は労働力。従者というか下人というか、そういった付き従う人がたくさんいることが、その人の社会的プレステージに大きく関わるんじゃないかと考えられる。タイのサクディナー制といったことがひとしきりいわれた時期がありますが、サクディナー制は、官僚の位に応じて何ライであるという土地の面積の大きさをいっているのですが、その面積を実際に支給したというのは、こういう土地を見ていると、とても考えにくい。土地を支給したのではなくて、ただ土地の面積によって社会的地位の上下を示したに過ぎない。何故土地の面積によってそういう社会的上下を示したかというのは、さきほどお話しましたインドシナ半島諸島あちこちにあるタイ族の、土地割替制といった土地慣習が、サクディナー制に反映しているのではないかというのが、私の差し当たっての推測です。
これが刈り取った後ですね(写真3)。水牛で運んで、そして家の前を少し掃除して、そこで水牛で脱穀している。水牛がもう決定的に重要なわけですね。水牛泥棒を一番、みんなかつては心配したわけです。水牛泥棒というと、土地のカハボディーだとかナック・レントーだとかいった有力者に話をつけて、そこでちゃんと受け戻されるわけね。金を払って。警察じゃなくて。
末廣昭 :
ジョンストンが書いた博士論文ありますよね、有名な 3。ナック・レントーなんかを書いた。先生はナック・レントーなんかにもお会いになったのですか。
友杉孝 :
ナック・レントーとは直接会ってない。隣の集落にいたが、今は亡くなった。子供は後を継がない。あと油売りはやっぱりナクレントーだと思うな。
末廣昭 :
さっきの労働者の手配をやってたのが、ナック・レントーに近いでしょうね。
友杉孝 :
次、これが、26年の定点観測の意味。こちらが最初に会った時の部落長ですね。当時灌漑局の守衛をやっていました。で、26年後はこちらです(写真4-5)。
友杉孝 :
良い顔してますよ、良く見ると。私もやっぱり同じく顔が変わっているわけですけれども、定点観測の良さっていうのは結局、こちらとこちらを比較できる。これは定点観測をしなければできないわけですよね。では次です。
水牛を世話するのも仕事であって、同時に遊びでもあるわけです。この後ろの方にいる子供の、これが26年後(写真6-7)。この間彼は、中東に出稼ぎに行って、そこでお金を稼いで帰って来てトラクターを買って、そして女性と結婚して近くの村に移住しているわけです。次です。
さっき水牛の前にいた人の子供が6歳か何かになるとこれになって、こちらで、その辺の缶詰の缶を楽器に使っている(写真8-9)。この人が、もっと成長するとこちらで。もう村にはいなくて、バンコクの南の何とかというところに移住して、そして子供もいて工場労働者になっている。これが26年間の定点観測。じゃあ次です。
水牛が今はこういったコンバインになっていて、全部コンバインでしてしまう(写真10)。賃労働で近くに住んでいる村から賃稼ぎにやってきて、結局その耕作している人は何もしなくて見ているだけです。そういうふうに農業は変わってしまった。次です。
村の人も、お金を少し貯めて、こういうトラクターでもって賃耕する。水牛はもういなくなっちゃったというわけね(写真11)。