研究史聞き取りの会〜友杉孝先生(前編)〜

● タイ(バンコク)への留学(1960年~)

次にタイに留学ということですが、1年タイ語の勉強だとか、タイについての基礎的な事実を知るだとか、そんなことで過ごしていたわけですけれども、いよいよタイへの留学となった。当時タイに留学するといっても、1ドルがまだ360円で、そして持ち出しが500ドル。アジ研から行くということで、アジ研が特殊法人ということもあって、パスポートは公用パスポートで出かけました。飛行場はドンムアンで、ドンムアンに着いたら石井先生が出迎えに来てくださっていて、石井先生のサポートによってバンコクの生活が始まるわけです。石井先生の紹介でYMCAに下宿するだとか、石井先生の保証でもって銀行の口座を開設するだとか、石井先生の保証でもってタマサートの行政研究所に在籍するだとか。全て石井先生のサポートによって始まったわけです。このYMCAに下宿したわけですが、当時のYMCAはまだ閑静な趣がありました。ここにいると、思わぬ日本人と会って話をする機会もある。その1人が梅棹忠夫先生だったわけですね。これは全く予期していなかったのですが、梅棹さんが『東南アジア紀行』 1 という本をその後出版されて中央公論から出ている。文庫にもなっておりますけれども、その中で、バンコクでアジ研から派遣されている友杉っていう人に会って話をしたというようなことが紹介されています。当時はバンコクにはまだ水路が残っていて、YMCAがあるサートンの前にも水路があって、バンコクが「水の都」と呼ばれた面影の、最後の段階が残っていた。シーロムにも水路があって、そして水路の脇には並木がずっとあった。

バンコクではジェトロの事務所が、当時中央郵便局のすぐ近く、ジャルンクルンロードのすぐそばにあった。そこの2階でタイ研究会が時々開かれていたんですね。研究会には10名ぐらい出席したでしょうか。ジェトロの所長をやっていた人が招集して、その事務所を使わせてもらって、そして何人ものタイに関心がある人が集まったわけですけども、石井先生を別にして、タイ研究者はいなかった。タイ研究者は誰もいなくて、他の人はみんなバンコクに滞在しているということで、タイになにがしかの関心を持ってそこに集まっていた。そして集まってなにがしかのことを話した後、どこかバーにいっておしゃべりするということです。

当時、サイアム・ソサエティにも私は時々出入りしていて、タイ関係の本を読んでいたわけですけれども、そこの事務員が自分の知人がたまたまバンコクに今来ていて、これから帰るところだと。行ってみないかという話があったわけですね。私は、タイの田舎を見てみたいという気持ちがあって、そんな話に乗りました。その事務員の紹介で、ウィセットチャイチャーンというノーイ川流域の1つの町、パクハイというアユタヤの西の方に船が着くところがありますけれども、そこを経由して行くわけですね。ノーイ川は灌漑局の管理下にあって、水位を調節している。そういうことから、バンコクを夕方船で出る。船で行くと夜中にパクハイに着いて、そして水位が上がるまでそこで止まっている。あくる日、水位が上がったところでまた船を出して上流に行くので、ウィセットチャイチャーンにはあくる日の午前中に着きました。そこまで一緒に連れて行ってくださった方は油売りですね。当時まだ陸路はほとんどなかった時代ですから、みんな船で往来していた。だから船がたくさん通っているわけです。その油売りのカハボディーという顔利きといった人は、船を目当てに船の油を売るという商売をやっていた。この油売りは川に面したところで売っているわけですが、川向こうに市場があって、市場では闘鶏場も開かれていました。そしてこのカハボディーは、いつもポケットにピストルを持って歩いている。ピストルを持って歩いて、闘鶏場を回って、市場の薄暗いところを回って、映画で見た西部劇の面影がちょっとあるわけです。ここにだいたい5~6日、何もしないでおりました。言葉も分からない。だから私を泊めてくれたカハボディーのお家も、言葉も分からない変な外国人が何しているんだろうと、そういうのが居たわけですね。帰りはカハボディーの指示でバイクに乗せられて、アントーンに行くバスが通る停留所まで、ひどい道を行った。バイクっていうのは、乾季であれば田んぼの畦道みたいなところでも走っていけるわけですから、そういうことで帰りはバスで帰って来るという経験もして、これもなかなか今から思うと面白い経験だったと思います。

最初はタイ語の研修が一番重要な課題としてありました。行った当初YMCAにいた頃は、だいたい電話の受話器が取れないんですね。電話がかかってきても、相手の電話をかけている人は、つまり受話器を持っている人は、言葉が分からない人が向こうの受話器を取っていると思いもしませんから、勝手に何か言ってるわけですよ。で、こちらは何も分からなくて、全くもう冷や汗もの、冷や汗以上のものであってですね(笑)。だから、何か用事があっても、本来なら電話ですぐ済むことが、わざわざ出かけて行って何かやる。タクシーに乗っても、道路はタノンの何とかって、タノンのあとが、なかなか通じなくて、ものすごく苦労するということをやっていたわけです。

そんなこんなしているうちに、石井先生のお宅に泊っても良いよということで、2か月ぐらい、あるいはもうちょっと3か月近くか、泊めていただきました。その時に、文部省からの留学生として松永和人さんという人も一緒で、彼は福岡の方に住んでいて、文化人類学の専攻をしていると。タイの後アメリカにも留学しているわけですが、この松永和人さんが一緒で、石井先生のお宅に2か月から2か月少しの間お世話になっていた。今から思うと、泊っても良いよということで、ああそれじゃありがたいと言って、下宿代も払わないで居たっていうのは大変恐縮する以外ないんですけれども、とても面白かったです。

タイ研究の吉川利治さんも、この石井先生の家の近くに下宿するようになって、しばしば石井先生の家にやって来ていました。そして石井先生が時間のある時ですね、夕食後いろんな話をしてくれた。やっぱり石井先生の話は言語学ですね。すごく面白くて、石井先生の先生である小林英夫さん、小林秀雄っていうと文芸評論家で有名ですけれども、あの秀雄じゃなくて、英夫のひでは英雄の英、おは夫の字で言語学の専門の人ですね。ソシュールの『言語學原論』 2を翻訳した人です。小林先生、この当時はまだ上智かどこかにいたらしいですけれど、その後早稲田に移っています。この人が三省堂で『言語學通論』 3という、言語学の初歩の人に本を出しています。1つの新しい言葉を出した場合に、そこを大きな文字で書いて、それがどういった定義を持っているかということを説明して、次に、また新しい言葉が出ると、またそこで新しい説明を加えていく。あまり厚くない、すごくコンパクトな本で、構造言語学のテキストとしてすごく良い本だったわけですね。ここで、意味するものと意味されるものとの恣意的な繋がりだとか、それから言葉のデノーテーション・コノーテーション(denotation, connotation)、つまり明示的な意味とそれにまつわる様々なニュアンス、あるいは言葉の現時点での話、ディアクロニック、シンクロニック(diachronic, synchronic)ですね。それから通時的な研究で、ディアクロニックだとか、そういった様々な基本的な概念を何かここで、自ずと理解するようになったわけです。

石井先生の話は、そういった言語学以外にも、17世紀のデカルトだとかパスカルだとかいろんな話が出ていて、すごく勉強になったわけです。

末廣昭 :

その、石井先生の家っていうのはマンゴン・サームセンの長女のブングァ・ベンチャガンのですよね。もうのすごい大きなお屋敷で、、、

友杉孝 :

そうです。

末廣昭 :

だから何人でも泊められるところです。

友杉孝 :

そうです。

末廣昭 :

僕、柿崎君と、サグンっていう次男のところにインタビューに行ったことがあります。

友杉孝 :

サームセンの家で、まあ石井先生がバンコクで僧侶になる時もここの隣の家のサポートによって、得度式をやっている。そしてその隣の小さな細い路地を隔てた大きな家、そこはインドかどこかに出て行って留守になっちゃったって。全部留守になって大きいから、半分空いてるから、住んでも良いよということで、私と松永さんがそこで住むようになった。

末廣昭 :

だからサームセン地区っていうのは、そのマンゴン・サームセンの名前を取ってできている。戦前の、大変な大物の産業資本家ですね、彼は。

友杉孝 :

これはすごくラッキーな話であって、我々は、サームセンの石井大飯店と称していた。つまり大飯店、宿屋ですよね。そして食事もできる。そういうことで、石井大飯店で吉川利治さんだとか、松永さんと共に大いに話も盛り上がって、エンジョイした。

そのうちにいつまでもそこにいるわけにもいかないし、日産ダットサンを中古で購入して、乗るようになった。私は不器用ですから、あちこちこすってデコボコだらけの車で走っていたので、バンコクで私の車に乗ってくれる人は誰もいなかったわけです(笑)。そんな車を持って、ラーマ6世道路のタイの人の家に下宿したわけですね。そこは母屋の方にはタイセメントのエリート社員の方が住んでいて、そのパートナーの母親が、すぐそばの母屋の脇についている2階建ての小屋に住んでいて、2階が空いているからというので、私はそこに下宿しました。

そこで下宿している間に、そこに勤めている女中さんのパートナーになる人がナコンパトムにいて、農家であるということで行ってみて、そこで2日間過ごして、そしていろんなその辺の話を聞いていたけれど、面白かったのは、近くに住んでいる年寄り、女性が、かつて「タート」といわれていたと。奴隷といわれていたというので、奴隷というものは一体何なのかということが、以後私の関心の1つにはなっていくわけです。

● アンコールワット訪問と日本への帰国

そんなことをしているうちに、日本に帰ることになって、アンコールワットをそれまで見ていなかったから、帰る時に是非見て行きたいと思って、吉川利治さんに話をもちかけて、「じゃあ一緒に行こう」ということで、2人でプノンペンに行って、プノンペンからアンコールワットに行きました。そこで伝説となる事故を起こすわけですね。どういうことかというと、アンコールワットは壁に叙事詩的なレリーフがずっと彫ってあります。それが本当に素晴らしい。私は当時、目下(今でも)カメラマニアだったから、それを写真に写したかったわけです。で、ファインダーで見ながら、50ミリの標準レンズで、ズームレンズってなかった。それでこうやって見て、これで収まるようにってだんだん後ろに下がっていったわけです。そうしたら後ろに柵がなかったのね。柵がなかった、それを忘れていたわけですよ。だからストっと落ちてしまったんです。写真を撮るどころか、シャッターをきる姿勢のまま下に落ちたわけです。

下に落ちたら、そこでもう、痛くて動けなくなった。で、幸いにしてというか、吉川さんにしてみれば不幸にしてということになるんでしょうけども(笑)、彼のおかげで車を呼んできてもらって、タンカでもって車に運んでもらって、それでプノンペンに行って、プノンペンの病院に入った。プノンペンの病院はフランス語ですから、たまたまフランス語の字引をもっていたから、その字引をもって何やらかんやら、わけの分からないことをまねでやっていたということですね。

そこで診てもらったら、骨盤にヒビが入っているということなんです。骨盤にヒビが入っていること、フランス語の字引でどうやって分かったのか分からないんですけどね。ともかくそういうことですね。ヒビが入っている。で、ヒビが入っているから動けないわけです、痛くて。日本に帰るので、エール・フランスに連絡してもらって、元々プノンペンから東京へのエール・フランスのチケットは1人分持っていたけども、座っていけないわけです。で、席を3つ潰して、そしてそこを平らにしてタンカからそこに乗っけていくということで、東京に着いて病院に入るまでトイレにも行けないと、そういう状態で帰って来たわけですね。東京に帰ってきたら、アジ研の方にも連絡がいっていて、そこにも病院車が来ていて、乗っけられて東京の厚生年金病院に入ったというのがアンコールワット訪問の経緯です。

末廣昭 :

アジ研では有名な伝説で(笑)。

友杉孝 :

アジ研でもって保険を払っていて、保険の元以上をとったのは私だけだという話が残ったそうですけれども、そういった伝説をつくっているわけなんです(笑)。でも、そういった骨盤にヒビが入ったというのは、時間が経てば自ずと治っていくというもので、その後何の支障もないということです。

そしてアジ研では、当時滝川勉さんが主催している研究会に入って、大塚久雄の『共同体の基礎理論』 4だとか、そういうものを中心に勉強して。そして私はそういった勉強をする一方において、タイに留学している間に集めた前近代の社会史を考える様々な資料をもとにして、「タイ土地制度史ノート」、副題で「タイの農村社会史」というものを帰って来て早々に書いていたわけです。

この「タイ土地制度史ノート」というのは、滝川勉さんと斎藤仁さん編の『アジアの土地制度と農村社会構造Ⅱ』 5というのに載っておりますけれども、そこでそのロベール・ランガ(Robert Lingat)というフランス人がですね、タマサート大学をでて法制史を教えていました。

末廣昭 :

プラワティサート・ゴットマーイ・タイ、ゴットマーイ・ティーディン。

友杉孝 :

4つですね、モラドック(注:相続法)だとか、それから刑法だとかって4つ、タイ語で講義録を出しているんですね。そのうちの1つが「ティーディン」(注:土地法典)で、これを基にして集めた様々な資料をあわせて考えたわけです。このランガの本をもとにして、インドシナ半島各地のタイ人の土地慣習、そういうものを見てゆくと、そのタイの族長への絶対服従だとか、土地の割替制だとか、均分だとかいうものがあって、アユタヤ期のタイの土地制度を考える1つの原型といったものがそこで見られる、と考えた。

タイのアユタヤ期においては、国王が名義上は全ての土地を所有し、農民は耕作する限りにおいてその土地の保有権を持っている。売買は禁止されていて、ここでは割替制はなく、相続が認められている。しかし、その土地が、大きな価値を社会的に持つということはなしに、むしろ労働力の方が社会的には貴重であるとされていて、農民の主な負担は、土地に対する租税というよりは、1年6か月に及ぶ用役といいましょうか、そのカオドゥワン・オークドゥワンといった用役労働、直接的な労働負担ということが主たる国家に対する負担ということです。そしてその負担で、用役でもって何をやったかというと、兵隊ですね。戦の兵隊になるとか、それから宮殿の建設だとか、それから水路の建設だとか、寺院の建設だとかいうことをやった。さらに、役人の私的な目的にも使われるというのを年6か月に及んでさせられたとされております。

それから、用役に駆り立てられるにはあまりにも遠く住んでいる人は、その土地の特産品を、国家に貢納する。それがスアイと呼ばれておりまして、王室の独占貿易の輸出品となっていた。そういった制度は、19世紀になると、農民の逃亡が大変増えるということがあって、6か月が4か月になっていくとか、やがてはタイに流入している中国人による賃金労働、クーリーに代替されるというようなことが起こります。そしてまた、徴税請負人による国家収入の増加ということで、例えばお酒を醸造するというのも国家の許可が必要であるので、そういった酒を醸造し販売するといった請負だとか、いろんな請負がたくさん出てくるわけです。

そしてこの請負人には警察権も与えられていて、徴税請負人の恣意的な行為によって、何でもない農民も搾りたてられるということになる。例えば自分が飲みたいと思って酒を自分で醸造していても、徴税請負人に見つかると全部没収されて、さらにそれ以外に家の中のいろんな金目のものがとられていくというようなことが起こっていくわけです。

こういった徴税請負人がその後、地方の有力者、アンジーだとかナックレン・トーだとか、遊び人の親方ですね。それからカハボディー。先に話した油売りも、やっぱりこういった人たちの末裔じゃないかと思われるわけです。ところが、1855年にボウリング条約で貿易の自由化が国際的に決められてしまって、社会の近代化が起こらざるを得なくなっていく。そしてこれまで放置されていたアユタヤから下流の土地も、大規模に開発されて大土地所有者が出てきて、これまでなかった大規模な小作農が形成される。

これはまた後で写真を1枚見ていただきますけれども、ラーマ5世に始まる改革、チャクリーリフォメーション(Chakri reformation)として、奴隷解放がある。この奴隷というのは何かというと、また後で触れますけども、いわゆるアメリカで綿の栽培でアフリカから連れてこられた奴隷、ああいうのとは全く違っていてですね、タイの奴隷はフランスの奉公人と同じように楽なものだといったパルゴアの証言があるし 6、ボウリング(Bowring)も「パルゴアはああいうことを言っているけれども、イギリスのサーバント(servant)よりももっとタイのタートと言われる奴隷が楽ちんである」といった証言もしているわけです。

チャクリー改革によって、奴隷というのは公式には全くなくなってしまうわけでありますけれども、実際には債務奴隷はやっぱり残存していて、さきにみた田舎で聞いた老婆がタートであったとか、あるいは後で、バンコクの聞き取りで、高級官僚の家の女中さんがタートと呼ばれていたとかいうような話もあるので、残ったわけですね。日本に帰って来て、ともかくタイの農村社会史の手掛かりを作りたいということで、「タイ土地制度史ノート」を書いたというわけです。

● 眼病の発生と立教大学への移動(1973年~)

そんなことをやっている時に、眼病発症といったことがあるわけです。普通、こういった研究史を語る場合に病気の話は滅多にしないわけでありますけれども、私の場合には眼病、目の病気が、研究と不可分に、また研究を大変決定的に制約していたということもあるので、少しだけ触れさせていただきたいと思います。

この眼病というのは、どういうことかというと、帰って来て4月に、太陽の光がものすごくまぶしく見えたわけですね。そして、そのうち目が白く霞んでいって、文字が見えにくくなってくる。目も充血してくる。で、眼科を受診して薬をもらって、その薬を点眼すると良くなるけど、またすぐ悪くなる。そして右が悪くなって右を点眼して薬を飲んで良くなると、今度は左が悪くなる。左が良くなると右が悪くなるということで、繰り返し繰り返し起こる。これは何だということで、厚生年金病院に、あれは何日間か、4~5日、入院して検査しましょうということで検査入院するわけです。検査入院してそういう眼病で可能性のあるものを1つずつ潰していくということをやって、最後に残ったのがベーチェット病という病気だというわけですね。

ベーチェット病というのは、私は知らなかったんだけど、これはすごい大変な病気であって失明する可能性も高いという。ただ、ベーチェット病の症状が全部揃ってあるのではなくて、ない症状もあるということから、不全形、完全でないというのですね。「不全形ベーチェット病」と診断があった。発作が起こると、ものすごく視力が低下する。炎症に精いっぱい対応する、対応するのが精いっぱいであって、プレドニンというステロイドホルモンの薬を飲む。それから目の近くに注射をするだとか、それからもちろん、点眼薬はたくさん使う。そうすると、たくさんのステロイドを使うことによって、目に緑内障の危険も出てくる。しかし緑内障の危険があっても、放っておけば、薬を、ステロイドを使わなければ失明してしまうわけだから、使わざるを得ないから使いましょうということで、使っていったわけです。

そんなもう、自分の病気に対応するのがもう精いっぱいであって、もう本当に途方に暮れていたわけですね。医者によっては、もう学問研究っていうのは、この病気になっていれば無理だという人もいたんですが、私はまあ完全形ではないんだから、不全形だから、行くところまで行ってと、後はその時の話だといったような気持ちになっていった。ともかくも炎症が起こるとそれに対応するのに精いっぱいで、ある時はこういった字も読めなくなってしまうんですね。字も読めなくなるから本も読めないという状況もあったわけです。

そんなことからですね、アジ研では当時タイムレコーダーというのがあって、朝9時でしたかね。それがね、きつくなってきたわけですね。きつくなって、もうアジ研で9時に間に合わなくて、だいぶ遅刻がたまって月給引かれたんですかね、そういうこともあって。もう嫌気がさしてきたわけですね。そんな時に立教の話があって立教に行った。立教大学に移ったのは別に病気だけではないけれども、病気が1つの引き金にはなっていたとは思います 7

末廣昭 :

難病っていうのはアンコールワットで転落したのとは関係ない?

友杉孝 :

全然関係ない。

末廣昭 :

あら、じゃあ全然違う。アンコールワットの祟りだっていうので僕らは言ってたんですけど(笑)。

友杉孝 :

伝説はいろいろと立つものであって(笑)。要するにこれ、ベーチェット病というのは原因が全く分からないんですね。だからどういう病気かって、今はインターネットで検索すればすぐ出てきますけれども、ともかく大変な病気なわけです。で、行くところまで行くと。病気でこう何回も炎症が起こると、中で癒着が起こって白内障になってしまうとか、両眼白内障だから白内障の手術をする。今は白内障の手術で中に眼内レンズを入れるけども、こういう炎症性のものであるから、後遺症の場合には眼内レンズ(を入れること)ができないということで、今でも眼内レンズなしに眼鏡をいくつも持っているというような塩梅です。それからステロイド性緑内障というものも結局起こってしまって、今でも定期的に病院に行って眼圧を測ってもらって、その眼圧を下げる点眼薬は使っているわけです。

しかし、そういった酷い目にあいながら何で学問研究を止めなかったかと思うんですけども、1つは途中でもって、職業を変えるっていうのは大変なわけですね。それは1つあるけども、それだけじゃなくて、学問研究ってやっぱり面白いんですよ。そして面白くて人を夢中にさせるところがあるんですね。そんなことから、さっき話したタートだとか、あるいは一般農民のプライ・ルアンだとか、プライ・ソムだとか 8、あちこちの文献で探してあーだこーだって考えて、社会史を考えたらもう面白くてですね、それで結局今に来ちゃったんだと。だから学問研究の面白さということで、今に至るというところもあるわけです。

脚注

  1. 梅棹忠夫『東南アジア紀行』東京:中央公論社、1964年。
  2. ソッスュール述、小林英夫譯『言語學原論』東京:岡書院、1928年。
  3. 小林英夫『言語学通論』東京:三省堂、1937年。
  4. 大塚久雄『共同体の基礎理論:経済史総論講義案』東京:岩波書店、1955年。
  5. 滝川勉、斉藤仁編『アジアの土地制度と農村社会構造II』東京:アジア経済研究所、1967年。
  6. パルゴアは、モンクット王と交友のあった宣教師。1930年から32年間、タイで過ごした。
  7. (友杉先生補足)眼病はその後、東大眼科の診断で、不全系ベーチェット病ではなく、原因不明のブドウ膜炎とされた。
  8. ラタナコーシン朝初期、チャクリ改革以前のタイにおける身分用役制度における区分である。大きくは、支配層(王族と官僚)と、被支配層(プライという自由民とタートという奴隷・不自由民から成る)に分かれる。プライ・ルアン(phrai luang)は国王に服属する公民であり、プライ・ソム(phrai som)はその他の王族や官僚に服属する市民を指す。