研究史聞き取りの会〜友杉孝先生(前編)〜

会の様子④
会の様子④

26年間でどう変わったか。定点観測というのは、こういった変化を具体的にビジュアルな形で見せるということです。それから後は、こちらの本(Changing Features of a Rice-Growing Village in Central Thailand: a Fixed-Point Study from 1967 to 1993)で説明していきます 1。これで、この写真の3番(注:書誌内に掲載された写真の番号、以下同じ)というところは、これは乾季になると水が引いてしまいますよね。そうすると水田のあちこちに水たまりができて、そこにたくさん魚が集まってくるわけです。同時に、日を決めて、その魚をみんなが集まってガヤガヤ楽しみながらとっているというところで、魚をとる日が同時にみんなが楽しむオケージョンにもなっている。

それから4と5は、これは村ではなくて、アントーンのお寺の1つにこういった彫刻があったわけですね。石像が。これはクメールの影響がアントーンにおいて大きかったということを示す石像でありますけれども、その後行ったらこれ、何故か全部セメントで塗られて、わけが分からなくなっていました。それから6番が、この村の住宅ですけれども、右の方と左の方とで1つの板が渡されていて、これが姉妹です。結局妻型居住でありますから、姉妹が隣り合わせで住んでいるということも珍しくないということですね。

それから7番が、朝食。8番がベランダの中の料理場ですね。それから9番が村の道路の中で、さっきのハープと、籠を担いで行商やっている。10番が村のお寺の住職で、住職はその宗教的指導者であるだけでなしに様々な人々の心配事の相談相手にもなっているので、村の精神的支柱であるということです。それから次のページは托鉢ですね。それからその下の12番というのは、亡くなった場合に遺体をこのお寺のサーラーに運んで、安置するという。それから13番がこの村の小学校ですが、小学校がお寺の境内の中にあって、みんなこう楽しくやっていると、喋っているというわけです。

次のページの14番がまた水田に戻りますけれども、倒伏した後の米の上の方だけを刈り取っていく。その下がかつてはアオレンといってみんな助け合いでやっていたのが、今は全部近くの集落からの賃労働になっていく。それから20番が村のおじさんたちですね。20番、21番と。当時はですね、この人たちがみんな活き活きとしていましたけれどもね、後でお見せしますけども、何かものすごく経済が発展して村が変わっちゃって、今はみんなションボリしているというところです。それから22がチャノート・ティーディン(注:土地の権利書)。こういったその紙切れが権利関係を示していて、これも行きわたっております。

それから次の23、24が市場で、毎朝開かれている。25番が、これは家の周辺に竹藪があって、そこから竹を切り出してきて、こういった竹竿を作っている。こういうふうに米は自分でつくり、竹竿も自分で作り、魚も近くの川から採るとか、サブスタンティブ・エコノミー(substantive economy)といった、後で話題にする経済が、お金目的ではなくて自分が生きていくために、そういった竿を自分で作るだとか、魚を川で採ってくるだとか米をつくるだとか、そういった事柄がそれぞれ毎年毎年行われていく。それが今風に言えば定常社会というものであって、定常社会という言葉はなくても、実態としては、こういった経済が行われている。

しかしそこでは、全く外との交流はないというのではなくて、次の29番は、集落のはずれにある精米所のオーナーである中国人です。中国のそろばんがあって、収穫したコメに対してお金を支払うとか、それからお金の前貸しもやっておりますから、それを引くとかということがここで行われている。

30番がクーリーで、やはり水路がまだ機能していて、コメのようなバルキー(bulky)なものはそこで運んでくる。31番が、ノーイ川の川岸に他所からやって来た人が船をもやって、ここで夜明かししているわけです。水路によってあちこち出かけて行って、行った先で夜明かしして、何か商売をするということが珍しくなかったわけで、これはアユタヤの方から来ている人ですけれども、この村の人も、自ら出かけて行って他の地域で何か商いをするということもやっていた。それから32番、魚をこういうふうにとって、次のページの33、34は上の方が日に干して干物にしているわけですね。下の方は炭であぶって燻製にしているわけで、こういうものもやっぱりサブスタンティブ・エコノミーの一部であるわけです。

その次がサンプラプームと言ってタイのどこにでもあるピーをまつる祠です。それから36番がコンソンと言ってシャーマンですね。亡くなった人の霊にとりつくとか、とりつかれるとかで、この人はインドラの神に、こう入って来て、そして失ったものを探すだとか、病気を治したとかいろんなことに関わっています。村はずれのところにあって、ここで夜遅くまでやっていて、ここに行って見ていると、すごく面白いですね。これまで座ってた人がパッとこう立ち上がって、踊りだすんです。踊りだして、ここでクライエント、来てる人が何か聞くと、それに対して何か話す。この、コンソンと言ってますけれども、シャーマンも村の生活の一部になっている。

次は、37番は得度式です。男子は一度必ず得度して、徳を積む。それによって自分を育ててくれた母親への感謝のしるしにするだとか、いろいろ言われておりますけれども。この得度する前は、「コンディップ」、「未熟な男」。得度して僧侶を経験すると、「コンスック」、「成熟した男」という言い方がされております。1つの厳粛な式でありますけれども、同時に、みんながこの人を祝っていくという祝祭的な要素もあります。

38が、儀礼的な問答が行われて、ここでもって許されて僧侶になるというわけです。それから、次のページは、これは「カーンテート・マハーチャート」といって、日本でいう大本生経聴聞ということで、仏陀の前世の話なんです。仏陀の前世で、こういうことをやっていた。そして自分を捨てて、自分の身を虎に食わせる。そういったことまでやった仏陀の純粋無垢な精神ということがここで語られるわけであって、その語りの口調というものが人々の心をうつ。村の人々は集まって来てここで話を聞きながらローソクを掲げるだとか、お賽銭を捧げるとか、いろんなことをやっているわけです。

お寺というものは、単純に仏教による救済とかいうのにとどまらず、お寺が中心になって村の生活が行われているということで、41とか42だとか、43はみんなお寺の集まりですね。お寺の集まり、例えば42はゴシップであるとか、あるいは村のゴシップから始まって当時のタイの政治ですね。サリットはどうであって誰それがどうだとかいったことまでここでおしゃべりの対象になっています。その下の43がお寺のそのコミッティというか集まりで、この人たちがお寺の具体的な世俗的なものを決めて行っているわけですね。

それから44と45はソンクラーンで、ソンクラーンというのは1年に1回の水祭りで、1年がここで蘇る。最も暑い時で、水かけでみんなビショビショになっている。夜はこういった屋台が出て、みんな好き好きに食べている。それから、46のこれはお寺の前ですけれども、右手の上の方に僧侶が傘の下にいて、ここでみんな楽しく騒いでいる。47がボートレーシングで、これがまた盛んで隣の集落とどっちが勝つかということです。それから48が、これは闘鶏です。闘鶏も盛んに行われて、どこで闘鶏やって誰が勝つか、村の人は闘鶏に全く夢中になっておりますね。だから闘鶏によって借金するだとか、何とかっていうのはありふれたことです。

それから49、52は、村の水田でノーイ川の左岸の方は浮稲地帯でありますけども、右岸の方は土地が高くなっていて、ここでは田植えが可能である。ものすごく暑いところで田植えして、そして刈り取るということは、浮稲に比べればこっちがよっぽど大変なわけですね。で、こういう女性ですけれども、日焼けしないように厳重に顔を隠すというか、日に当たらないようにして仕事している。この右の方の男の人は、後の写真でもう1回出てきます。人工の花を作るのですね。52の女性は、さっきのパクハイ浮稲地帯の賃労働に行ったけども、この人もかつて若い時に賃労働で出かけていたということです。

54が新しい動きで、後ろの建物が灌漑局、そしてここにいる人たちはみんな賃労働者です。かつては賃労働は限られた分野でしかなかったけども、その後はもう至るところで賃労働になっていく。私は、この事務所の左の方の端の建物のもう1つ向こう、(この写真と)似たようなところで泊まっていたわけです。

66番か67番、68番。この辺りは、村で人工の花を作るのが流行るようになって、バンコクとの間のローカルエージェントがここにいました。66の家なんてかつてなかったような家でありますね。これがエージェントで、そして次のページの71、72、73というのは、こういう人工花というのが、各家で作られるようになっている。それから74、75も同じく、人工花を作っています。

末廣昭 :

これは、輸出じゃなくて、国内で売っていたんですか。

友杉孝 :

これは輸出です。香港に輸出すると聞きました。だけどね、面白いというか興味深かったのは、ある家では針金だけ持って行って針金に何かトイレットペーパーを巻くというそれだけの仕事、ある人はちょっと上の方を削るだけという仕事をしていた。皆が作っているのはそういったパーツパーツ(部品)であって、自分が作ったものがどんなものになるかは誰も知らない。エージェントも知らなくて、ローカルエージェントもそれをバンコクの工場に持って行って、そこで組み立てられて香港に輸出するという風に聞いていた。この仕事がものすごく流行るわけですね。

末廣昭 :

問屋制家内工業の一種ですよね。

友杉孝 :

そうです。これいつまで流行っていたか分かりませんけども、ともかく流行っていた。その後、写真91から92、93と、そういうことが流行った結果、村の男たちはすることがなくなっちゃって、まあ何かションボリしてね(笑)。虚無的で悲しい感じになっちゃっているというのが、例えば92です。92、93。それに対して97の女性もすることがなくて、この人は子供たちの仕送りだけで生活していたけど、まだ何かシャキッとした感じが残っている。

ということで、この後の後半の部分については、もう若い人はここに残っていなくてどんどんバンコクへ出ちゃうし、それから残っている人も、村に入ってくる道のところにいると、朝5時45分にアユタヤの工場の車が来て、それに乗る。車はこの先のターチャンというところまで行くんです。また帰りはそれで送られて帰ってくる。それから稲作も決定的に変わって、61番の写真ですけど、これは灌漑局の計画によってこういう水路ができて、この水路によってこれまでの浮稲のところに水路から水を入れていく。そうすると浮稲の場合には雨季と乾季では、雨季にコメを育てて乾季に刈り取るけど、この場合は乾季に水を入れる。乾季に水を入れると、稲はこの水をとっていく。乾季の水だから肥料が使えるわけです。そうすると収量がものすごく上がるわけね。農民はそのコメを全部売っちゃって、自分の食べる分は市場で買ってきて食べる。そういった稲作が一部で起こっているわけです。この水路をもって乾季に水を通すというのは、全部通すと水が足らないから、全部行きわたっていないけれども、一部ではそういうことがあった。そういった農業の革新を64の農民は指導して、そして水の分配だとかいろんなことで灌漑局だとかそういうところと掛け合っている。そういった農業が行われているわけです。

末廣昭 :

1967年に村に行くのにかかった時間と、1993年にバンコクから行く時間、どれくらいですか。

友杉孝 :

バンコクからアントーンに行って、アントーンから乗り換えて行くから、3時間かかってないね。バス、待ちあいがあるからね。交通手段の変化ははやい。

末廣昭 :

67年でも。

友杉孝 :

最初の67年の時はもっともっと時間がかかっている。

末廣昭 :

だって船使うわけでしょ。途中から。

友杉孝 :

67年は船じゃなくても、バスでアントーンに行って、そこからポートンまでバスで行って、ポートンからバイクで行く。

末廣昭 :

どのぐらいかかりましたか。

友杉孝 :

何時間かかったかなあ。やっぱり5~6時間はかかっているでしょうね。だけどその後はもっと簡単になっちゃって。何しろバイクの後ろに乗っけてもらうと、本当に早く行っちゃいますから、もうバスを待つ必要がなくなった。その代わり危ないですけどね。

末廣昭 :

それはお金払って。

友杉孝 :

もちろん。

末廣昭 :

バイクタクシーのはしりですよ(笑)。

脚注

  1. Tomosugi, Takashi. 1995. Changing Features of a Rice-Growing Village in Central Thailand: a Fixed-Point Study from 1967 to 1993. Tokyo: The Centre for East Asian Cultural Studies for Unesco, The Toyo Bunko.