研究史聞き取りの会〜赤木攻先生〜

(2019年11月9日(土)15:00〜17:30 於大阪大学豊中キャンパス全学教育推進機構スチューデントコモンズ(総合棟Ⅰ)2階セミナー室B)

語り手:赤木攻先生(大阪外国語大学名誉教授)「タイ研究に携わり50年」

司会:村上忠良(大阪大学)、遠藤環(埼玉大学)


はじめに
遠藤環:

今日全体の司会を務めます、埼玉大学の遠藤と申します。よろしくお願いします。昨年からタイ学会では、タイ研究史を語っていただくという企画を始めております。昨年は友杉先生で、今日は赤木攻先生にお願いしております。司会は大阪大学の村上先生にお願いしております。皆様もご存知の通り、赤木先生は大阪外国語大学の名誉教授でおられまして、学長を務められ、その後東京外国語大学にもお勤めになられたことがあります。それから、このタイ学会でいうと、タイセミナーのころからの創設者のお一人で、非常に長い間タイ学会を引っ張ってこられた先生です。

今回準備するにあたって、大阪大学による名誉教授へのインタビュー記録と、赤木先生が生い立ちから比較研究史に至るまで寄稿していらっしゃる『クルンテープ』1を読みました。タイ学会そしてアジア研究の立ち上がりの頃から、アジア研究が育ってくる過程を引っ張ってこられたので、そういった観点からもお話いただけるかと思います。赤木先生のご経歴は、村上先生にも少しご紹介いただこうと思っております。先週出たばかりの赤木先生の集大成にひとつである『タイのかたち』2が後ろの方に販売で並んでおりますけれども、今日はこの本のご紹介もどこかの時点で少ししていただけるのではないかと思っております。

私の方からは、資料と事務的なことを確認させていただければと思います。大体2時間くらい村上先生司会で赤木先生からレジュメに沿ってお話いただこうと考えております。最後に30分くらい会場の皆様との質疑応答の時間を取りたいと思います。配布している資料は3種類ありまして、赤木先生に作成していただいたレジュメ、赤木先生の経歴について末廣昭先生が作成してくださった図表の形になっているもの、それから赤木先生の略歴及び研究業績があります。それから学会員の方には、アジア経済研究所の小林磨理恵さんが作成してくださった研究目録がすでに学会のメーリングリストの方で流れているかと思います。目録は実に65ページあります。まだ見ていない方は帰って確認していただきたいと思います。色々と赤木先生が関わっていらっしゃった関係で、今日はタイとの関わりが深い方もいらっしゃっているとお聞きしております。もし目録を後日入手したいという方がおられましたら、終了後おっしゃっていただければと思います。それでは、村上先生にバトンタッチしたいと思います。よろしくお願いします。

村上忠良:

大阪大学の村上と申します。今、外国語学部でタイ語専攻の教員をしております。本日は赤木先生の研究史聞き取りということで、私が司会でいいのかなというのはあるのですけれど、多分私よりもご存知の方が多いと思うのですが、赤木先生のご紹介を簡単にさせていただきます。

私が赤木先生とお会いしたのは、1984年に私が大阪外大のタイ語学科、その時はタイ・ベトナム語学科というところでしたが、そこに入った時に教員として教鞭をとられていて、その時からのお付き合いとなっております。ご存知のように赤木先生は色んな面をお持ちの先生です。当然のことながら大学の教員で研究者ですから、研究者というのが一番の側面で、様々な研究をしてこられました。それ以外の赤木先生の特徴としまして、私いつも横で拝見しているのは、非常に優秀なオーガナイザーです。様々な人と人を繋いで色々な活動をずっとされています。特にタイ、もしくは東南アジア研究において様々な活動をされています。例えば赤木先生と末廣先生がお創りになった日本タイクラブや、この日本タイ学会の母体になるタイセミナーという研究者の研究集会、個人的にと言われますけれども大阪外大のタイ語専攻の同窓会なんかも、赤木先生にお世話になりながら活動をしています。そういうところで、研究者でもありオーガナイザーであります。もう一つ、赤木先生の人生の中で、アドミニストレーターとしてのお仕事も非常に大きいです。ご存知の通り大阪外大の学長を務められておりますし、今は大阪観光大学の学長もされています。そういう意味でアカデミックな組織を管理運営されてきたという、本当に多面なお仕事をされてきた先生です。

今日は日本タイ学会ですので、本当は色々な話をお聞きしたいのですが、まずは先生が研究を志されたところ、特に私なんかも世代が赤木先生より二世代くらい下の人間ですので、若い世代の人たちに赤木先生が研究を始められてずっと続けられてきたという最初の立ち上がりのところのお話。もしくは1970年代からタイの農村調査を共同研究でされていますけれども、そういう共同研究のお話からまずお聞きしたいと思っております。大体45分くらいお話しいただいて、私が頃合いを見て少し休憩を入れて、それから続きであと45分くらいお話ししていただけるかと思います。1時間半ぶっ通しで話されるとだいぶお疲れになると思いますので。それでは先生、どうぞよろしくお願いします。

岡山の少年時代と外国への関心

みなさん、座ったままでお話させていただきます。今日は本当に大勢の方に集まっていただきまして、またこのような機会を設けていただきまして、ありがとうございます。とりわけ末廣先生、小林さん、それから遠藤先生、日向先生、本当に学会の大勢の方にお世話になりました。末廣先生には私よりも立派な年表を作っていただきまして本当に感謝しております。今日は生い立ちの方から少しずつ入っていって、タイ研究を始めた動機とかそういったことからお話したいと思っておりますけれど、歳も75を十分に超えまして後期高齢者になりましたので、多分ほとんどのことを忘れております。もし質問がありましたら、質問していただければ思い出すかもしれませんので、よろしくお願いしておきます。

このお話をいただいた時レジュメを作ろうと思って、簡単に作ったものが皆さんのお手元にあると思います。実は私は岡山県の生まれです。本当に寒村で、倉敷の駅から伯備線に乗って、当時ですと蒸気機関車で2時間くらい米子の方に向けて行く途中の、中国山脈のやや山陽側の本当に小さな村で、戸数が15軒か20軒くらいの村に生まれました。私は幼稚園には行っておりません。幼稚園がなかったのです、家の近くに。皆さんはおそらく複式教育を受けられた方はそんなにいらっしゃらないと思います。複式教育といいまして、ご存知の方はご存知だと思いますけれど、2学年が一人の先生から同時に学ぶ。そういう教育を小学校で受けました。ですから「1年生の皆さん算数をしておいてください。さあ2年生の皆さん国語を始めましょう」とか、幼い頃はそういう状況の小学校で学びました。私の出た小学校の名前は足見(たるみ)小学校といいまして、「足を見る」と書きます。なぜかといいますと、私の家は高梁川の近くにありましたが、学校そのものは山の上にありまして、足を見て歩かないと歩けないくらい、つまりものすごく急な坂で、そこを通ったわけです。登るのは1時間、降りるのは10分か15分でした。そういった山の中で育ちました。ですから外国のことは全く知らなかった。周囲は山ばっかりでしたから。

ただ一つだけの思い出とすれば、私の村の中には「株内」というのがありました。株というのはいわゆる木の株ですけれど、株内というのは、赤木の姓の家が一緒になった寄合みたいなものですね。例えば正月の1月1日は戸主が集まって、一に礼を書く「一礼」という、お互いに今年もよろしくというような挨拶を代わり番こに赤木姓の家でやるような習慣(儀式)がありました。それがまたあとで申し上げると思いますけど、タイで農村調査に入った時に「屋敷地共住集団」という家族形態に出会い、比較の対象として自分にとっても随分参考になりました。そのことを考えると、幼年時にそんな田舎で育ったことが後のタイ研究と関連したことを不思議に思っております。

少年の頃は毎日高梁川で遊んで、ほとんど何もしておりませんでした。外界、外の世界と自分を繋ぐのは、当時はラジオしかありませんでした。それも山の中ですから、NHKともう1局、2局くらいしか入りませんでしたが。そんな経験のある方はもういらっしゃらないと思いますが、電波を合わせるのがものすごく難しいんですね。それをなんとか合わせながらラジオを聞いていました。たまたま私に3歳くらい上のいとこが赤木株内の中にいまして、そいつとよく遊んでいたんですけれど、彼がちょうど中学校に入った頃、私がちょうど小学校の5年生か6年生でローマ字を習い始めたかどうかという時に、「おまえ英語知らないの」というわけです。「英語?」と聞きましたら、「お前は知らないだろう、わしは英語を喋れるんだぜ。This is a pen.」とやったわけです。ぼくはびっくりしましてね、そんな言葉あるんかいなと。その後、親に聞きましたら、英語というのはあると。世界には色んな言葉があるというのを教えてもらいましたら、そして、父親がいつの間にか当時のNHKの基礎英語のテキストを買ってきてくれたんです。それで6年生の4月だったと思いますけど、とにかく朝の6時か6時15分か忘れましたけどラジオを入れて、聴き始めたのです。それが、おそらく外の世界、外国と接した最初だったと思っております。それを分からないままに、これローマ字と違うかと思いながら聴いたものです。中学校に入った時、中学校は30人くらいのクラスが2つありましたけど、父兄の70%くらいは「うちの子には英語は教えてもらわなくていいです、先生」と言っていました。つまり大きくなっても英語を使うようなことは多分ないだろうという。そういう田舎でした。私はちょっと基礎英語を聞いていましたから、1年生の時もなんとなくうまく授業に入っていけたような気がしました。

中学校はだいたい徒歩で30分、自転車で15分くらいかかりました。高等学校は伯備線で4駅か5駅離れた町に通いました。当時は1時間に1本くらいしかなかったのですが、いわゆる蒸気機関車に乗って汽車通学していました。ですから、朝早く出て夜は遅くなって帰ってきました。1本汽車を乗り遅れると1時間か2時間待たなければなりませんでした。

そういった所で育ちまして、さあ、どこの大学へ入ろうかと。1963年のことです。困りまして、親もそんなに裕福でもないしできるだけ迷惑をかけないように国立大に入りたいと考えていました。でも田舎で、どこの大学へ行くといっても都会に行ったことがないから、受験に一人では行けません。私のいとこの一人が神戸大学におりましたので、当時2期校と1期校とありまして、1期校は神戸を受けようと決めました。これはたぶんダメだろう、入学できないだろうと思っておりました。2期校は、大阪におじいさんの弟が住んでいまして、「おさむ、来いや、春場所もあるし、ええよ」と言われたので、じゃあ行こうかと。そんなわけで、親戚のあるところの神戸大学と大阪外国語大学を受験しました。

大阪外大を受ける時には、言語を選ぶ必要がありました。その時に、なぜか分かりませんが、私はアジアにちょっと興味を持っていました。当時、アジアの言語は中近東、アフリカまで含めて10言語くらいは外大で開講されていたと思いますが、その中でくじを引いたところ、タイ語に当たりました。それ以上何もない。ですからタイとか、ビルマとかマレーシアとかについて、それほどその時に知識はなかったのですが、もうどこでもいいというような気持だったと思います。ともあれ、タイ語に当たったというのが、タイ語学科に入学したきっかけであります。大阪外国語大学では、私の時は毎年の募集でしたけど、私のちょっと前まではタイ語やビルマ語は隔年募集でした。毎年募集がなかったわけですね。ですから私の上はいたけれど、1年生に入った時に3年生か4年生はいなかったんじゃないでしょうか。

学年も一学年10人ほどでして、小さな小さな学科でした。私も岡山から出て大阪に行ってびっくりしました。田舎出の子は本当に大変でしたね。もう学校の周りは全部自分一人では入っていけないような建物ばかりでした。当時大阪外大があった場所は、上本町6丁目の辺りです。上本町の6丁目から大学までの間に、パチンコ屋、麻雀屋、暴力団事務所、ストリップ劇場、そんなものばっかりありました。今はだいぶなくなりましたけれど、いわゆるなんとかホテル、あ、ラブホテルという類いですかね。よくワシントンとかパリとかいった都市の名前にちなんだ名前のホテルがありました。午後の授業が終わったら「これからワシントン行くよ」とかいった冗談がよく飛び交いました。本当にあんなところに学校がよく建っていたなと思います(笑)。

ですから最初は怖くて、当時まだ市電が学校の前を走っていましたが、乗ったらどこ行くか分かりませんから、僕は歩いてばっかりでした。祖父の弟が、大学へ歩いて行ける所へ下宿を探してくれまして、そこへまず住みました。私が最初に入った下宿は一間、一部屋だけですね。2階に二つ部屋があって襖で区切られていて、私の隣部屋は3年生のモンゴル語の学生でした。非常に良い先輩で、色々な所を案内して連れて行ってくれましたので、私はなんとか大学生活を始めることができましたが、襖ひとつですから、今のような学生の生活環境とはずいぶん違うと思います。

脚注

  1. 赤木攻「おさむちゃんの中のタイ」, 『クルンテープ』 2009-1号~2010-6号, 泰国日本人会.
  2. 赤木攻(2019)『タイのかたち』めこん.