研究史聞き取りの会〜赤木攻先生〜

研究者の道へ

最初から留学は2年間ということでした。2年目の終わりかけの頃に、どうしようかなと思っていたのですが、2つ進路が考えられたんですね。当時、松下とかトヨタが日系企業の初陣としてタイへ出てきた時期ですね。若い人でタイ社会に対応できる人はそんなにいないから、「うちけーへんか」とか言われたのですが、ちょうど冨田先生から「外大にポストがある。助手や、けーへんか」と言われました。その前からひょっとしたらそういうポストがあるかもしれないということは時々先生から手紙が来ていて知っていましたが。僕が就いたポストは、矢野先生の後任ということになりますね。

先ほど学生時代にバイトでたくさんの褒美をもらったことを言いましたけれど、実はあの経験から、どうも自分は会社に入ったらあかんのではという印象を持っていたのです。というのは、商社というのは当時外大生にとっては憧れの就職先ですから、僕もいいなと思っていました。しかし、その時実際に見た大阪の商社にはこれくらいの部屋に大勢の人がデスクを並べていました。僕が係りの彼のところへ行ったら「赤木君、ちょっと待っとってなー」と言うて、どうしたんかなと思ったら、電話がかかってきて、「はいはい、はい」とか何とか言うて、その内もう一本の電話も鳴って、右耳と左耳でやり取りするわけですよ。これで30分くらい僕は待たされました。感じましたねー。これが花の商社員の仕事かと。こんなこと一生できないと僕は思いました。その時から会社へ入るのはどうしようなかと思っていました。

本当はトヨタとかナショナルから提示された給料のほうが数倍高かったのですけれど、お世話になった外大にもどり、一生暗い研究室やけど、まあまあ学生を相手に一生暮らそうと決心しまして(笑)、外大を選びました。助手ですから、2日くらいは、家で仕事して本を読んでいたと思います。まだ当時は共同研究室で、冨田先生、吉川先生、コーサー先生と一緒の部屋にいました。一番僕が下ですから、色んなことをやりました。特に当時はコピーがジアゾ(ジアゾ式複写機、俗に青焼き機)ばっかりでしたから、大変でしたけれど楽しかったです。冨田先生とか吉川先生が集められた本が研究室にも沢山ありましたから、これは読めるということと、当時京都大学に石井先生がちょうど着任された頃で、外大に1週間に1回は非常勤で来ていただいていました。

1960年代は、日本に地域研究という言葉が入ってきて、東京にアジ研(アジア経済研究所、1960年)、京都に東南アジア研究センター(1963年)、それから東京外大にAA研(アジア・アフリカ言語文化研究所、1964年)ができた頃です。これは非常に新しい分野だから、あんたそれやりなさいよと言われました。しかし僕は何をやっていいかほとんど分からなかったです。お互いが重なったことをやってはだめだということなので、僕は政治とか社会とかそんなのやらなあかんかなと思っていたのです。

それから石井先生に色々とご指導いただきました。京都の川端通りの橋渡ったところに東南アジア研究センターがありました。木造だからぎしぎし音がしたのをよく覚えています。あそこで週1回か2週間に1回、石井先生と『三印法典』を読む会を二人だけでやっていました。途中で田辺(繁治)さんが加わって、3人で、1週間に1回か2週間に1回か、分からないタイ語を読み始めました。本当に分からないですね、石井先生と一緒に読んでも1回に3行も進まないことが多かったです。家に帰ってきてふと思い出して電話で「先生、あの意味こう違うかな」「ああ、赤木君、そうやな」とよく話したりしました。そういう研究会というか勉強会をやっていましたね。

そのころ、スコータイ碑文のGlossarial Index1を作ったのだと思います。この時僕は、遠藤さんという女性の学生を指導していました。このスコータイ第一碑文のインデックスを作ろうということは石井先生との話で出てきまして、これを(彼女の)卒業論文に仕立てたんですね。それをのちにA Glossarial Index of the Sukhothai Inscriptionsという形で出すことができました。これ全部私がタイプ打ちしました。

それから時期が前後しますが、矢野先生の最初の著作物で、ドクター論文になっているかと思いますが、『タイ・ビルマ現代政治史研究』2を手伝いました。それは、学生時代ですけれど。また、これも私にとって貴重な経験でした。加えて、アジ研が『タイ語文献総合目録』3を企画しましたので、外大にあるタイ語文献の目録のカード打ちをやったんですね。それが、私がタイ語のタイプライターを覚えた最初の経験です。当時は手打ちでした。外大に2台くらいタイ語のタイプライターがありまして、それを使って外大のタイ語蔵書をカード打ちにしたんですね。Union Catalogueという形で出ていますね。僕が卒業してから出版されたのだと思いますけれど、学生時代にそういうお手伝いをしました。矢野先生の本には、資料集かどこかに僕の名前が載っているかもしれません。

外大に助手として入ってからは、読書会とかそういったことをずっとしておりました。それからBannaanukrom4。吉川先生もバンコクからもう帰られていましたから、吉川先生と一緒に、タイやったらやっぱりラーマ五世時代だねと、ラーマ五世時代に関するタイ語文献をセレクトしたものを、本当に小さい冊子ですけど作りました。これは結構タイでも評判が良かったように思っています。本当に昔のことですけれど。それからもう一つは、『三印法典』の中の官吏の、サクディナーの表ですね5。これは田辺先生も一緒になって作りました。これも自分の手で全部タイプ打ちしたことを覚えています。タイプは大変でした。ミスがあったら本当に大変で、何回も何回もタイプを打ち直したのを覚えています。そうそう、そのころ石井先生が執筆しておられたのが、先生の最初の本であります『上座部仏教の政治社会学』6。これも資料部分を頼まれてお手伝いしたことを覚えています。

そういうことで、最初に外大に入った頃は、石井先生からのお誘いもあり、勉強会を始めたということになりますね。何をやっていいか分からない状況でしたから、基本的な文献を読みましょうといったことが私の駆け出しのころでしたね。1969年でしたから、今年でちょうど50年なんですね。何とかなんとか9年というのが私自分の人生の変わり目になっていると、あとから気が付いたのですが1969年がスタートの年です。69年から3、4年間はそういうことをずっとやっていたと言えます。

「10月14日政変」と「10月6日事件」

そうこうしているうちに、1973年に「10・14政変」が起きました。これは私にとってもショックで驚きましたけれど、タイ研究者や東南アジアの研究者はみんな驚いた事件でした。ただ、自分で自分を褒めたらだめなのですが、実は1973年7月の『アジ調月報』という毎日新聞社のアジア調査会が出している月報に、そんなに長いものではないですが「タノーム政権の苦境」7を書いています。密猟スキャンダルを取り上げて、タノームの政権はもう危ないのではないか、ひょっとしたら学生が・・・というようなことを書いております。今読み返したら、私は予見していたんじゃないか、えらいなと思って、自分を褒めていますが、そういうことがありました。1968年に憲法を制定しましたけれども、タノーム・プラパート政権はもう10年くらい経っていましたから、多分もう危ういと思っていましたが、当時こんな予見を自分でやっていたんだなと、今は感慨深いものがあります。

「10・14政変」が起きた時、東京のどこかで日本のタイ研究者が何人かが集まって、「10・14」をどう評価するかという小さな研究会みたいなものがありました。参加者の皆さんほとんどの方が、中国の五四運動と同じく「学生革命」という言葉を使われました。私はその時まだ駆け出しでしたから、そんなに強い意見を言いませんでしたけれど、ちょっとおかしいんじゃないかな、革命ではないし学生革命でもないな、というようなことを発言しました。そんなことを言ったので、終わってから懇親会かなにかで北原淳さんが僕に声をかけてくれました。その時初めて北原先生と会ったんです。「赤木さん、面白いこと言うね」と。それが、73年の12月くらいだったと思います。その時みんな大変でして、特にタイ研究者はそんなに大勢いるわけじゃないですが、どうみるかということを話し合いました。私は、確かに学生が力を出したんですけど、軍内部の動きとか、そういう動きをもうちょっとみないと、学生が主導だったか、本当に裏で動いたのはどんなグループなのかということをもう少しよく見ないとだめなんじゃないかというような発言をしたと思います。

さて、私はそれまで石井先生や色んな先生と勉強会をしてしましたが、そんな中、『三印法典』を使ってまとめたのが「タイ国の法体系に関する一考察」8。多分これが、私が最初に文献を使った研究発表です。『三印法典』を使って、旧制度下時代と現代の法体系がどのように連関しているのかということを考えてみたのだと思います。

そうこうしているうちに、1975年から77年にかけての2年間、今度は先ほど申し上げました日本が寄贈した日本語講座の客員講師として、国際交流基金から派遣されます。日本語も教えましたけれど、どちらかというと日本の文献、簡単な文献を読みながら、日本の文化を学生と一緒に考える授業を担当しました。この時はチュラーとタムマサートの両方で教えました。その時に起きたのが、「10・6事件」です。この「10・6」は1976年ですから、私はその時タイにおりました。その時、日本人は危ない、外へ出たらだめだということでした。特に私は交流基金から派遣されていましたから、大使館から厳しく行動のことを言われました。

申し忘れましたが、チュラーに留学しているときから、それからこの時期もそうですけど、今はもうないんですけどチュラーの政治学部の裏にあるカベに小さな出入り口がありました。そこを出たところに、サームヤーンという商店とか飲み屋とかが多く、生鮮市場もあるところがありました。今はチャムチュリーという大きなショッピングセンターになっているあたりと、その周辺です。そこにスラック・シワラック(Sulak Sivaraksa)9さんが経営する本屋、スクシット・サヤームがあったのです。そこが私の休憩所になりまして、暇があったら文学部からでも歩いて、理学部と政治学部を超えたところへでかけ、本をよく見ていました。小さい小さい本屋でしたけれど。その本屋に、73年の「10・14」から76年の「10・6」の間に、タイの思想が一気に爆発したことを示す本がたくさん並び始めました。例えば、それまでは目にしなかった『毛沢東語録』とかいったものがたくさん並ぶようになったのですね。それは街の一般の本屋でもそうでしたし、店頭でなく道路沿いの新聞しか売っていないようなところでも、そういうものが販売されるようになりました。それらの本は、ポケットブックというか、安い安い本です。(表紙が)硬い本Pok Khaengではなく、Pok Oonがたくさん目に留まったので、それを一生懸命集めたんですね。当時、人と会うことは厳しい目で見られました。特に私は交流基金からの派遣という立場もありますし、なかなか動けなかったのですが、本を買うのはいいだろうと思って結構購入しました。安価でしたからね。ところが「10・6」が起きた直後に、スクシット・サヤームから「赤木、危ない。お前が持っている本は危ない、やられる」という連絡を受けまして、さるところにお願いして本を避難させました。

1978年のPocketbook Publication in Thailand10は、その時に私が集めた本の主なものを取りあげて解題したものですけど、75年から77年に私がタイに滞在した際の一つの生産物であります。それまでのタイの本はハードカバーで仰々しいものが多かったのです。しかし、今でもうちにありますが、特に左翼系の考え方が、ポケットブックという非常に安易な、誰でも読めるような形で出てきた。それが73年から76年の間の思想的な流れの形成に大きく貢献したのではないかと思っています。その一つのシンボリックな存在としてパブリケーションの問題を取り上げたわけです。また、いわゆる「コーミュニット」を取り上げて、学生や思想家への抑圧に言及したのが、1980年の『アジア経済』に掲載された「タイにおけるコーミュニットの政治学」11です。1975~77年の滞在経験がこうした論稿を私に書かせたんじゃないかと思っております。2年間というのは、一方ではもちろんチュラーロンコーンやタムマサートで教えていたのですが、非常に貴重な経験をそこでしたわけですね。1977年春には日本へ帰国しました。

脚注

  1. Yoneo Ishii, Osamu Akagi, Noriko Endo (1972). A Glossarial Index of the Sukhothai Inscriptions. Kyoto: The Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University.
  2. 矢野暢(1968)『タイ・ビルマ現代政治史研究』京都: 京都大学東南アジア研究センター.
  3. アジア経済研究所編(1972)『タイ語文献総合目録 = Union Catalogue of Thai Materials』東京: アジア経済研究所.
  4. Yoneo Ishii, Toshiharu Yoshikawa, Osamu Akagi (1972) . บรรณานุกรมทางประวัติศาสตร์ ในรัชสมัยของพระบาทสมเด็จพระจุลจอมเกล้าเจ้าอยู่หัว = A Selected Thai Bibliography on the Reign of King Chulalongkorn. Osaka: แผนกวิชาภาษาไทย มหาวิทยาลัยวิชาต่างประเทศแห่งโอซากา.
  5. Yoneo Ishii, Osamu Akagi, Shigeharu Tanabe (1974). An Index of Officials in Traditional Thai Governments. Kyoto: The Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University. 本の序に「大阪外国語大学赤木攻講師には資料作成の段階で御協力をいただいた」と謝辞がある。
  6. 石井米雄(1975)『上座部仏教の政治社会学——国教の構造』東京: 創文社.
  7. 赤木攻(1973)「タノーム政権の苦境——密猟スキャンダル事件」『アジ調月報』第39号, アジア調査会.
  8. 赤木攻(1975)「タイ国の法体系に関する一考察(Ⅰ)——伝統的法体系の存続」, 『東南アジア研究』第13巻第3号, 京都: 京都大学東南アジア研究センター.および、赤木攻(1976)「タイ国の法体系に関する一考察(II)——伝統的法体系の存続」, 『東南アジア研究』第13巻第4号, 京都: 京都大学東南アジア研究センター.
  9. スラック・シワラック(1933年生まれ))の思想的変遷については、『タイのかたち』(2019年)の233頁から240頁に詳しい紹介がある。スラック・シワラック、赤木攻訳著『タイ知識人の苦悩――プオイを中心として』、東京:井村文化事業社、1984年)も参照のこと。
  10. Osamu Akagi (1978). “Research Note and Data on “Pocketbook” Publication in Thailand, 1973-1976″ 東南アジア研究 16(3): 473-523.
  11. 赤木攻(1980)「タイにおける<コーミュニット>の政治学——象徴と政治化をめぐって」,『アジア経済』第 21 巻第2 号,アジア経済研究所.