研究史聞き取りの会〜赤木攻先生〜

初めてのタイ語学習

大学へは入ったのですが、最初の授業の時びっくりしましたね。みなさんもそうだと思います、タイ語の勉強。今は大体分かって入られた方が多いと思いますけれど、最初に教科書を見た時に、これはもうだめやと(笑)。私は普通の人間で、これは都会の子供の優秀なやつが勉強する言葉だと思いまして、辞めようと思いました。当時冨田竹二郎先生がいらっしゃって、冨田竹二郎先生に、「先生、僕これついていけない。もう辞めようと思います」と言いました。すると冨田先生は、「赤木君なぁ、夏休みくらいまでやってみたらどうや」と言われたので、「しゃーないな、夏休みまでは頑張ろう」と思って、タイ語の勉強を始めたわけです。ところが、言葉の勉強ですから、1学期に1回とか2学期に1回の試験ではなくて、ひと月に何回か小さなテストがあるわけですね。最初か2回目か忘れましたけれど、テストがあって戻ってきた点数を見たら、秀才やと思っていた天王寺高校や大阪や京都の有名な高等学校の出身者より、僕の点の方が高いんです。あれ、これはえらいこっちゃと。この人たちも、ちょっとあれかなぁと思ったら、少し自信が出てきました。

これならいけるかなと思っていたところ、下宿の近くのご飯屋さんでよく食べに行っていたところがあったのですが、そこの方が「昨日タイ人が来た、タイの人が来た」と言うのです。えっとびっくりしまして、今度また来たらちょっと会いたいと言っておいてくださいなと話しておいたのです。それが縁で、タイの人と会うことができました。それは1年生になってだいぶ経ってからだと思います。そのタイの方は、近所の工場に旋盤か何かの技術を習いに来ておられました。私もタイ語を始めたばかりで、彼も来てそんなに長くないということで、その人と友達になりました。それが僕にとって非常に大きかったです。ほとんど週末は彼と過ごすことが多くなりました。彼が私にタイ語を教えてくれて、私が彼に日本語を教えるようになりました。交換授業ですね、それが始まりました。当時すでにコーサー(・アーリヤー)(Kosa Areeya)1先生がおられまして、ネイティヴによるタイ語の授業もありましたが、授業以外の場でそういう方がいらっしゃって、しかもほとんど毎週会っていましたので、段々タイ語及びタイに関する関心が強まってきました。彼がいなかったら、私は今ここにいないかもしれないといつも思っています。私と同じか私よりちょっと上ですかね、もうここ2年ほど会っていないのですが、タイへ行けば彼に会うようにしています。そんなことで、少しタイに対しての興味が湧いてきたわけですね。

自分がタイ語を一生懸命勉強するようになったきっかけをもう一つだけ紹介します。当時新幹線がまだなかったのですが、大阪駅から急行かなにかで岡山駅まで行き、そこからローカル線の伯備線に乗るんですが、急行列車中で、車内アナウンスがありました。「お客さんの中にお医者さんがおられましたら、車掌まで申し出てください」と。少し体調の悪い人が出たのかなーと思っていたのですが、しばらくして「お医者さんが二人おられました。ありがとうございました」といったアナウンスがありました。その時、僕思ったんです。果たしてこの電車の中に、タイ語ができる人おるやろかと。多分いないんじゃないかなと。よく考えたら、岡山県の中に、タイ語ができる人いるかなと思うと、多分いないだろうと。当時麻雀が非常に流行っていましたから、麻雀の上手な人で岡山県で一番になろうと思ったら、これ大変だろうと。だけどタイ語だったらひょっとしたら俺いけるんじゃないかなと自分で思いまして。その時からですね、やっぱりこれは頑張ればいける。ひょっとしたら西日本だって3番か4番くらいに入るんじゃないかという気がしました。いわゆる希少価値ということになりますかね。その当時、タイ語なんて本当に希少価値があったと思いますけれど、そのことを学生の身分ながらに思いまして、これは頑張ろうと考えたことを今思い出しております。ですから、タイ人の友人と、帰りの準急か急行の中で思いついたことの二つが、私のタイ語への関心を非常に惹きつけた大きな理由であります。しょうもないことですけれど、人生のポイントはそういうことにあるのでしょうね。

2年生か3年生くらいになりますと、タイ人の友人と会っていましたから、ある程度は会話もできるようになりました。今でも思い出す面白い経験があります。3年生の時だったと思いますけれど、タイ語の通訳のバイトがあると言われましてね。先生から誰か行くかと言われて、誰も手を挙げる勇気がありません。私もどうしようかなと思ったのですが、ちょっと行ってみたろうかなと思って手を挙げたのです。そしてその通訳のバイトに行きました。多分商社だったと思いますけど、合弁会社を作る計画の相手先の社長さんと息子さんが来られていました。僕が行きますと、そこの会社の人が「赤木君、息子さんのほうの面倒を見てくれないか」と。お金渡すから関西を適当に案内して遊んでやってくれということでした。これやったらできるなと思って、1週間くらい京都行ったり奈良行ったり色んな所を案内しました。そうして終わった時に、その会社の方が、「赤木君よくやってくれた」と。「これは約束のバイト料の数倍か数十倍あるけど渡します」と言われて、びっくりしましたね。その時国立大学の授業料が年間何千円かの時代でしたけど、なんと10万円いただきました。多分どうも大きな商談がまとまったみたいですね。だからその祝儀のような意味だったと思います。私はびっくりしましてね。こんなお金見たことないと思って、半分貯金して半分くらいで当時一番いいか2番目くらいのニコンのカメラを買いました。当時私が一番欲しかったものでしたから。そういうこともありまして、タイのことが好きになり始め、段々興味も湧いてきました。

当時、冨田先生と、吉川利治先生がいらっしゃいました。吉川先生にはタイ滞在中であったこともあり、2年間くらいしか教わっていません。それから矢野暢先生。矢野先生は、皆さんご存知かどうか分かりませんが、初めて務められた大学は大阪外国語大学です。非常勤で石井米雄先生、水野浩一先生、それから佐々木教悟先生といった方々がおられました。タイ語は冨田先生に教えていただきましたが、当時若い矢野先生が南タイから帰ってこられたばっかりで、矢野先生は切り口もお話もとてもシャープで上手で、面白いなと思っていたわけですね。それで矢野先生の鞄持ちみたいなことも4年生くらいの時にはしていたかもしれません。石井先生も非常に面白い。ダムロン親王の著書を一緒に授業で読み、タイの歴史に関心が高くなりました。水野先生も「屋敷地共住集団」2というタームを考えられた直後でしたが、丁寧にゆっくり教えていただいたことを覚えております。当時ほとんど私も理解できなかったのですが、先述の通り、農村調査で実際に「屋敷地共住集団」に出くわしたわけで、学恩を感じました。

3年生か4年生になりますと、卒業してどうしようかなと思っていました。私も色々考えて、先生とか研究者になろうという夢はあまり考えていませんでしたけれど、どこかでもうちょっと勉強したいなという気持ちはありました。というのも、同級生はみんな浪人でしたけれど私は現役で入りましたから、1年くらい遊んでもいいなと思っていました。特に石井先生や矢野先生に聞いたら、「日本ではまだタイの勉強なんか教えてくれる大学はない。現地へ出かけ、そこで学ぶのがいいのでは。やはり、現地経験が必要ですね」という話をされたのです。たまたまその時に、小田実の『何でも見てやろう』3という本が結構ヒットしていました。私はそれを読んで、これは一回タイへ行かなあかん、話にならんなと思ったのです。

これは大変やなぁと思ったのですが、チュラーロンコーン大学文学部長のローン・サヤーマーノン(Rong Sayamananda)教授という歴史の先生に手紙を書きました。入れてくれ、勉強させてくれということを手紙に書きました。これがまた、たまたま冨田竹二郎先生がチュラーロンコーンの日本語講座の先生として赴任されていました。外務省所管の国際交流基金ができたばかりの時期だったと思います4。日本政府がお金を出して、日本や日本文化の研究をする講座をチュラーロンコーンとタムマサートに寄贈しました。その教師として冨田先生がいらっしゃったので、連絡を取りました。連絡と言っても、今のようにインターネットがありませんから、ほとんど手紙です。4年生になった頃から冨田先生によく手紙を書きました。「先生、入れてくれるような見込みあるでしょうか」と聞いたら、先生が「赤木君、今の力で精いっぱいの手紙を書け、それをわしが学部長のところへ持って行ってやる」とおっしゃったので、僕は一生懸命手紙を書きました。返ってくるかどうか分からないし、多分だめかなと思っていたところ、しばらくしたらチュラーロンコーンの学部長から「あぁ、いつでも来い」と。びっくりしましたけれど、入学許可みたいものが来ました。それでタイへ行こうと。

ところがその頃、タイへの留学は本当に難しかった。誰もそんなところへ行こうと思いませんし、留学そのものがそれほどポピュラーじゃないし、1ドルが360円か365円。本当に日本もまだ貧しかった。私自身も貧しかったのですが、私は親を説得して、とにかく行き帰りの飛行機代だけほしいと言いました。なんとか親だけは説得できました。しかし周囲の人、特に親戚の人、赤木株内の人はみんな反対でした。うちの親に、「可愛い可愛いおさむちゃんを、ワニか蛇しかいない、ジャングルのようなところへなんでやるんだ」と。母親はたぶん泣いたのではないかと思っています。そういった状況でしたけれど、私は行こうと、やっぱり自分で1回この目で見ないとだめだと思ってタイへ行ったわけです。それがチュラーロンコーン大学へ入ったいきさつです。

チュラーロンコーン大学への留学

ちょうど4年生が終わりかけの頃、正月を過ぎた1月か2月頃に、日本航空が世界一周路線を開設しました。世界一周を記念して、チュラーロンコーン大の日本語学科の優秀な学生を日本へ招待旅行するという企画があり、学生3人が日本に送られてきました。その面倒を僕に見なさいと。ちょうど冬、2月くらいでしたね。ひと月ほどチュラーロンコーン大の女子学生3人との日本旅行となりました。松尾静麿5という通産出の社長の社長室に呼ばれまして、「赤木さん、少ないけどこの100万円を持って行ってください。これでこの3人に日本を紹介してくれ」と言われました。私としては、こんなことはもうとないだろうと思い、旅館も列車も全部上等で、これほど上等はないというくらい贅沢な旅行を組みました。東北までは行きませんでしたが、大体東京から九州まで3人と一緒に旅行しました。本当に良い勉強になりました。その年の6月にチュラー大に行くことが決まっていましたから、本当にいい機会になりました。6月にドンムアン空港に着いた時には、その3人が迎えに来てくれました。嬉しかったです。ですから、そういう意味では非常に幸運だったと思います。今でも日本航空が世界1周路線を記念して作った時計台が、チュラーロンコーン大の工学部の横あたりにあると思います。

そして、いよいよチュラー大へ行くことになるわけです。これも本当に面白いと思いますが、ちょうど私がチュラーロンコーンに行く1週間前に、タイ国際航空が香港の啓徳飛行場でオーバーランして海に突っ込んだのです。僕は行こうと思っていたのに、チケットの会社から「乗られますか」と電話がありました(笑)。乗られますかと言われてもしょうがないし、親にも話したうえで、「乗ります」と返事しました。大阪の伊丹空港から発ったんですけど。当時は飛行距離が短いから2回は乗り換えたと思いますけど、乗ったらお客さんが少ない。子供がいない。多分最初の空港であった台湾でトランジットで降りてちょっとしてから戻ったら、スチュワーデスのみんなが来い来いと言うんですね。なんでだろうと思いました。今日もうお客さんおらんからお前こっちこいと、一等席の方へ呼ばれました。「あんたタイ語できるな」と言われて話に花が咲きました。楽しい時間を過ごしていたためか、知らぬ間にバンコクに着いていました(笑)。ですから最初のタイ行きはとても愉快な旅になりました。ただバンコクの飛行場が近づく時に、ちょっと聞いてはいたんですけど、ほとんど皆さん同じ印象があると思いますね。街が見えない。バンコクどこにあるかなと思いました。とりあえず着きまして、さっき言いましたように3人のチュラーロンコーン大の女子学生が迎えに来てくれました。ニッコリ笑ってくれまして、ああ!と、これでタイへ何とか入っていけるなと思いました。

ということで、あくる日、チュラーロンコーン大の門をくぐることができました。皆さんもよく行かれたと思いますけど、シンメトリーのシンボリックなチュラーの文学部の校舎へ行きましたら、また3人の女子学生が迎えてくれて学校を案内してくれました。当時は、Henri Dunant Rd. 側(アンリデュナン通り)の門から入ったところに小さな池があり、その横にニッパ椰子の葉で覆われた屋台風の学部食堂がありまして、お昼にそこへ連れて行ってくれまいた。何の料理だったか忘れましたけど、一番美味しかったのはサトゥー・リン、タンシチューですね。これはもう、こんな美味しいものをどうしてタイの学生は食べているのかなと(笑)。日本の学食のご飯とうんと違うなと思いました。それが強く印象に残っています。

最初はどの授業を聴いてもらっても結構ですということだったので、学部長のローン・サヤーマーノン先生の歴史学は聴かなあかんなと思いました。タイの歴史の話ですが、あの先生は本当にもう頭が良いのか何なのか。良いんでしょうね、何年何月何日に何をしたとか、全部覚えておられました。「おぉ、おまえは日本から来た赤木君か」といわれてちょっと話をしましたら、自分が日本へ行って東京の何とかいうご飯屋へ何年何月何日に行って、鰻丼を食べたとか全部覚えておられて、えらい先生やなと思いました。多分今はもう誰も読まないと思いますけれど、英語でもA History of Thailand6が出ていると思います。ローン・サヤーマーノン先生、ちょっと格好が、図体が大きいです。先生はヨーロッパ系だと思いますけど、蝶ネクタイをいつも絞め、恰幅の良い先生でした。チュラーロンコーン大にファカルティークラブがありまして、私もそこで昼食を食べてもよいと言われたので時々行きましたが、必ず同じ席で、シンハービールの小瓶を1本いつも昼間に飲んでおられました。わーえらい先生だなと思いましたけど(笑)。

それからもう一人僕がお世話になったのは、チラーユ・ノッパウォン(Jirayu Noppawong)7という先生で、タイ語の主任教授でした。この先生には授業でもお世話になりましたけれど、2週間に1回くらい、対面で二人で色々なことを喋ったり本を読んだりして、タイ語を教えてもらいました。その先生は、本当にユーモアのある先生で、面白い先生でした。話しているうちに王族で、イギリス留学をしたことがあり、イギリス自由タイの一員だということが分かりまして、時々そのことも交えて話をしました。のちにこの先生は、枢密院顧問官になられました。もう亡くなられましたけれど、今でもにこやかなお顔を思い出します。それから地理の先生とか何人かの先生によく面倒を見てもらいました。

食べ物が美味しいのと、そういった良い先生がいらっしゃいました。ただ僕は、お金が全くありませんでしたから、これは何かしないとあかんと思いました。冨田先生が最初はまだおられて、冨田先生が借りておられた家の2階におったのですが、しばらくしてから寮に入りました。寮費は多分そんなに高くなかったですが、お金を稼ぐ必要があると思ったので、日本人の方を相手にタイ語教師のバイトをしました。そんなことで何とか食べていたのですが、一番お世話になったのは大阪外大の先輩です。すでに会社員としてバンコクにおられる方に随分お世話になりました。一番困った時、5バーツしかなくなりました。土日でしたので、これあかんな、銀行にも行かれへんなと思って、ある先輩のところへ行ったら、100バーツか200バーツ、ポーンと出して「赤木君、これ使え」と。本当にありがたいと思っております。そういう意味でも、私は15期生だったと思いますけど、外大の諸先輩方々にずいぶんお世話になりました。

思い出としては、もちろん授業も出ていましたけれど、よく旅行をしました。ほぼ全国を回りました。今のような舗装道路がなく、バスもほとんど窓がないいい加減なバスでした。バスが一番安かったですけどね。あとは乗り合いタクシーですね。この二つを利用して、全国をほとんど回りました。砂埃、土埃ばっかりですので本当に大変でした。地方の宿に着くと、宿もちゃんとした湯も出ませんでしたけれど、服のままシャワーして紅色の泥を落としたのをよく覚えております。一番の思い出は、チャンタブリーですかね。私が最初に地方旅行を計画して出かけたのは東南部の臨海地域でした。そこは、バンコクから一番距離が短いからという理由でした。チョンブリーからサッタヒープを通ってチャンタブリー、トラートの方へ初めての地方旅行をしました。その時に、先に言ったバイトで買った日本製のカメラとノートを持って行きました。ある小学校で写真を撮っていたら、ちょうど児童が体育の授業か何かをやっていて、バーッとこっちに来ました。みんなカメラが珍しいから、これなんやなんやいうてどこのカメラやとか話をし始めましたら、体操の先生が来ました。「どこから来たの」と聞かれて「日本です」と言ったら、ああ、と。チュラー大で勉強していますと言ったら、「私はチュラーの卒業生や。明日私の学校へ来て、生徒に日本のこと話をしてくれ」と言われました。私が講演をしたのは、それが初めということになりますが、結構楽しかったです。生徒たちは、日本のことはほとんど知りませんでしたが、日本の自動車、オートバイが流行りかけていた頃で、「ホンダのバイクはなんぼするんや」と児童から聞かれたのを覚えております。地方旅行は、本当に楽しかったです。旅行そのものは乗り物や宿泊に大苦労しましたが。

それから学生と親しくなるために、学生の中に入っていく必要があるので、私が最初にやって失敗したのは、いや成功か失敗か分かりませんけれど、次のような試みでした。文学部は皆さんご存知のようにほとんど女子学生なんですね。ある日、私は冗談で「手相を見ることができる」と言ったのです、ある学生に。そうしたら、「えーっ、見て見て」と言われましてね。しょうがないから、いい加減に生命線、頭脳線とか言いながら手相見をしたのですが、それが文学部の中で噂となり広まりました。大勢の女子学生が手相見てくれと言うんです。僕は会話の練習のためにいいと思ってやったんだけれど、手も握れるし、これはいいやと思いまして(笑)。しかし一番困ったのは女性の先生。「赤木さん、あんたは日本流のなんか、手相見ができるらしいですね」と言われて、あれには困りました。いい加減にごまかしましたけれど。

てなわけで、それは僕にとってはタイ語の勉強にとても役に立ちました。タイ語のもう一つの勉強法は、今はなくなりましたけど、サナームルアン(王宮前広場)で週末に市がありました。大規模の市ですね。そこへ出かけ買い物客に化け値段交渉をしたり、物を売っている人と話をしたりすることを楽しみました。いやはや、時間を忘れるほど楽しかったですね。本当に多様なものが並んでいました。青空百貨店ですね。小動物も売っているなど、何でも売っていました。品揃えは街の百貨店以上でした。暑かったですけれど、その横には古本屋がありましたし。この二つが会話の勉強になったなといつも思っております。

あとは当時チュラーロンコーン大とタムマサート大日本語の寄付講座ができたばかりで、そこのチューターみたいなのをやってくれと言われて、学生が日本語を学ぶのをお手伝いしました。最初にできた学生友達は、その時の日本語の学生の友達ですね。今でもタイへ行きましたらみんなアカギ、アカギ言ってくれますから。そういうことで、彼女彼に日本語を教えたのも、楽しい思い出となっています。

学生生活で、楽しくないなと思ったことほとんどありませんでした。たとえば、寮生活もそうですね。チュラーロンコーン大の、今は本部棟があるパヤータイの向こう側に男子寮がありました。「木造寮」と呼ばれていた古い寮で、ボロボロで汚い汚い所でしたけどそこへ住みました。工学部の学生と一緒で、二人一部屋でした。一日パンツ以外は何もつけずに暮らしていたと思います。そこで一番楽しかったのは「ラップ・ノーンマイ」、いわゆる新入生歓迎会ですが、寮の新入生歓迎会は学部のそれとはまた違って、ちょっとここでは言えないような。ほんまに僕はびっくりしました。「一物比較大会」とかいうのがありまして、あんなんようやるなと思っておりましたけど(笑)。皆さん、推して知るべしということで、それ以上の解説はできません。もう一つ言いますと「ナン・ホー」、寮の映画というから、チュラーロンコーン大寮の歴史でも映し出すのかなと思いましたら、違います。ピンク・映画(ナン・ポー)ばかりでした8。こんなこと、言うていいんかな(笑)。

寮でも色んな人と知り合ったのですが、実はその寮生の中に、スリチャイ先生がいました。皆さんご存知ですね、スリチャイ・ワンケーオ(Surichai Wun’gaeo)9。今は何しているのかな。チュラーの研究所にまだいると思いますけれど、この4、5年前は国の中央選挙管理委員もやっていたんじゃないかな。スリチャイさんも、のちに村落調査の時に協力してもらいましたが、それ以前に寮で知り合いになったわけです。寮生活も、僕の一番の楽しい楽しい経験でした。その時にできた友人が、その後大きく私を助けてくれたといえると思います。

脚注

  1. 1958年から約20年にわたって大阪外国語大学タイ語学科の客員教員を務める。『タイ日辞典』(初版1972年)の著者。
  2. 水野浩一(1969)「東北タイの村落組織」,『東南アジア研究』第6巻第4号, 京都: 京都大学東南アジア研究センター.
  3. 小田実(1961)『何でも見てやろう』東京: 河出書房新社.
  4. この当時は財団法人国際文化振興会。1972年に特殊法人国際交流基金(The Japan Foundation)に改組した。
  5. 松尾静麿(1903-72年)。戦前の逓信省の出身者で、日本航空の2代目社長(1961-71年)を務めあげ、戦後日本航空業界の父と呼ばれた。
  6. Rong Syamananda. (1971). A History of Thailand. Bangkok: Chulalongkorn University.
  7. チラーユ・ノッパウォン、モームルアング(1912-2003年)。教育副大臣も務める。枢密院顧問官は1975年3月26日から2003年11月7日まで30年近くの長きに及んだ。
  8. ナン・ホーパック(寮の映画)とナン・ポールノ(ピンク映画)のかけ言葉。
  9. スリチャイ・ワンケーオ(1949年生まれ)。チュラーロンコーン大学政治学部教授・社会科学系教授。東京大学の留学生で、1973年「10月14 日政変」当時、在日タイ人留学生協会の会長。チュラーロンコーン大学社会発展研究センター所長(1995-2003年)、同大社会調査研究所(CUSRI)所長(2006-09年)、平和・対立研究センター所長(2010年以降)など。