タイ・クメール人の農村生活と宗教—スリン県プルアン村の事例

特集 「タイを鳥瞰する」 司会:玉田芳史(京都大学)

発表者:野津隆志(神戸商科大学)

表題:国民形成と学校教育ー東北地方における言語の国民化

発表内容:

1 課題の設定

 これまでのタイ宗教研究によっ て、タイ在住のクメール人の宗教が必ずしも十分明らかにされてきたとは言い難い。スリン県プラサート郡プルアン村で調査した岩田慶治は、ほかの民族の宗教 研究との比較からクメール人の宗教の特徴を指摘している。すなわち、祖先神を中心に年間の行事がおこなわれているが、祖先神は稲魂であるが、土地神の性格 は有していないとしている(岩田1990:205)。 また、タイ全体でサン・プーターといわれているように、男性の神だけが表象されており、祠のなかには御神体がないのに対して、クメールではドンターといわ れているように、男女の神が表象されていて、しかも御神体として1対の男女の木隅がまつられている。そうした点に特徴があると指摘している(岩田1990:204)。その後、同じプルアン村で調査したスメットは宗教の比較ではなく、様々な信仰がどのくらい継承されているのかを各戸調査した(Smet 1988)。彼の調査は、儀礼ではなく信仰の側面に置かれており、その資料的価値も大きい。調査の結果、彼は現在でも強く多くの信仰が継承されているが、人々は「年輩者が言っているから霊を怖がり、信仰して」いるにすぎず、それほど熱心な信者ではないことなどを見出している。

管見では、農村をフィールドにしたタイ在住のクメール人の宗教研究は以上の2つしか見当たらなかったが1)、きしくも2人ともプルアン村でフィールドワークしていることは興味深い。そこで、岩田が1964年から5年にかけて調査整理した資料があるプルアン村で調査をおこない、家族・村落生活・信仰・儀礼の歴史的比較研究をおこなうことにした2)。ここでは、これらの課題のうち信仰・儀礼を取り上げ、岩田の見解を比較考察することを課題としている。

始めに儀礼の全体を簡単に分類し て概観するとともに、岩田が調査報告していない新築儀礼と得度式の前日の招魂儀礼を取り上げて、その儀礼内容を検討し岩田の見解を批判検討することにす る。そして、最後に、北タイおよび東北タイ北部の信仰・儀礼と比較し、クメール人の信仰の特徴を明らかにすることにしたい。

2 プルアン村 概説

2.1 歴史的経緯 以前は紛争地帯、国境警備隊の配置、ニコム、開発の経緯(図1)

2.2 農業事情  家族農業経営、米+野菜の自給、「共働・共食」の少なさ(資料6)

          機械化の進展、ローン・パネウの減少、出稼ぎの増加(資料6)

2.3 ムラの生活 年齢と性別の分業、およびレオテーの習性、からかいあいの関係

          村内婚・近隣の婚姻の多さ(資料7)、親族のネットワーク

          オートバイ・車の普及(資料6)、開発で村落内組合の形成

          開発に伴う区長・村長の権力の伸張

2.4 家族生活  年齢と性別の分業、重層的な家族生活、高まる進学率

          男性に傾斜した相続/男女平等の相続(資料8)

          借金の高額(資料8)、ブンクン観念の希薄さ

3 信仰の体系的理解 概説

 以下、簡単に宗教・信仰を体系的に整理してみる。(本文中括弧内はタイ語表記)

3.1 年中行事 寺院・仏教の儀式、集落の守護霊儀礼、遺跡の土地霊儀礼(資料1)

3.2治療儀礼 悪霊払いが多い、plompao 呪文・息を吹きかける)もある

       招魂儀礼hao prung, som prungハオ・プルン、ソム・プルン

       (riak khwanリアグ・クワン)少ない

       近隣の村の霊媒師borkao son)がchao poを持ちこんだ

       女性:霊媒師borchor memotkao son

       男性:司祭achanachan plompao

3.3農耕儀礼 祖先霊、稲魂、土地霊(資料3)

3.4 人生儀礼 得度、還俗、長寿、前髪落とし儀礼(資料4)

3.5 建築儀礼 新築・一番柱・米倉一番柱など(資料5)

 全体の儀礼の考察

岩田の調査報告(196919901991)している儀礼は、結婚式、村の守護霊、前髪落とし、一番柱、妊婦、正月行事(登山、踊りruam trot)、農耕儀礼(稲魂祭り・初耕祭など)、悪霊払いkae kruasado khro)、 洗骨儀礼などである。これらは、資料それ自身としての価値が高い。これ以外の儀礼、たとえば新築、葬式、得度式を含めた仏教の行事、遺跡の土地神の調査報 告はみあたらない。また、同じ儀礼・式といっても個々に内容が違うので、必ずしもすべて同じではない(例として、私の調査では、結婚式のなかで最後に食事 の儀礼がおこなわれるが、これについて岩田は記載していない)。

岩田は、祖先神と稲魂の一致を見出しているが、各戸の先祖祭祀は9月のドンターである。一方、稲魂祭りは1月の先祖祭祀(sen ta)で集落の守護霊の祠(katoamu ta)で儀礼をおこない、その後家に帰ってから米倉のなかで儀礼をおこなう。したがって、稲魂祭りは先祖祭祀とつながっているわけではない。むしろ、集落の守護霊儀礼と連動しており、その儀礼の意味と関連している。岩田は、集落のその儀礼の意味について、それがドンター(don ta、 祖母・祖父)と呼ばれていることから先祖祭祀としている。それゆえ、土地神の性格が弱いとされている。しかしながら、それは集落全体の先祖と考えられてお り、新しく移住してつくられた集落では明確に聞かれるように(ロイエット県サワン村、ブリラム県)この地を開拓した先祖を意味している。プルアン集落のよ うに、古くからある場合には、この土地を開拓した先祖という意味合いが弱くなっていて呼称のみから判断すると土地神の性格がとらえられないように思われる (スリン県クワシナリン第1村も同様)。

また、岩田が祖先神と稲魂の一致を見出している点に関して、9月のサート行事の時、村人は餅米を小さくまるめたもの(bai ben) を寺院の本堂に朝早く持参し、その米に僧侶が祈祷する。東を向いて太陽を仰ぎ見て僧侶が三拝する。この米を家に帰ってから既に苗の背丈が伸びた田に撒く。 仏陀の呪力を得た米を儀礼的に撒くが、村人はこれが栄養になるのだろうと解釈している。その数日後、バナナの茎で船を作り、ごはん・おかず・お菓子を乗せ て水に流す。いわゆる、先祖送りをおこなう。しかし、先祖迎えの式は、それに先だって前日におこなわれる先祖祭りのドンターである。従って、このサートの 一連の行事は、仏教が先祖霊の来訪に関与し、先祖霊を稲魂に結びつけていることを示している。これは、祈祷した餅米を田に撒いていることに象徴的に示され ている。従って、岩田の指摘するように、祖先神と稲魂が一致しそれを仏教が仲介しているといえる。

年間の行事の推移としては、7・8月に田植えをし、9月に先祖祭祀と秋季祭サートがあり、12月に収穫、1月に集落の守護霊儀礼と稲魂祭りがある。耕起の儀礼や始耕祭(cho sare)などは、先祖霊に対する祈願ではなく、土地霊である土母神(nian kon hin traniニアン・ヒントラニー)に対する祈願である。

また、岩田は、家にあっても土地神が弱い証拠として屋敷地に柱上祠(san praphumサ ン・プラプーム)がないことを指摘しているが、むしろ土地霊の卓越性はそれなりにあるといえる。ほかの儀礼を見ても、たとえばすべての儀礼に先だって、必 ず土地神に儀礼執行の許可を乞う儀礼がおこなわれる。土地霊である地母神の人形を作り、ごちそうと一緒に土に埋める。また、後述するように、招魂儀礼のさ いプラプーム(praphum)を部屋の中央に立てて儀礼をおこなうわけであるが、このプラプームはチャオ・ティ(chao thi)とも説明しているが、臨時に立てられた天霊の依り代であることから天霊が土地霊と一体になっている。

以上のように、先祖霊と稲魂、土地霊は複雑に関連しながら並存しているといえる。岩田はこれについては触れていないので、稲魂との関係で水の霊に対する信仰について触れておくと、集落の守護霊は先祖霊を祭る祠(katoamu ta)であるが、それは必ず大きな池の傍に建てられており、御神体として池からあがった石が納められていることがある。従って、ドンター(祖母・祖父)という呼称にとらわれてしまうために見えにくいが、先祖祭祀(sen ta)は同時に水の霊の祭りでもあると考えられる。

ところで、これまでの北タイ農 村の調査経験と比べてみると、子供たちが親に孝行をあまりしていないように思われた。確かに、子供と親との関係で、村人の口から子世代のブンクンの大切さ を聞く機会が少なかった。出稼ぎでバンコクに出ている場合でも、田植えや稲刈りの手伝いに戻らないとか、親に仕送りをしない人もいた。それでも、親も苦情 を言わない。こうした光景は北タイなどの調査ではあまり見られなかったものである。それどころか、ここには「親は10人の子供を育てられるが、10人の子供は親を養うことはできない」ということわざがある。

また、寺院の建設年代をみると、プルアン村の寺院(マハーニカイ)は1891年であるが(図1)、周囲の寺院(森の寺院)はここ数十年の間であった(周囲の森の寺院の建設年次は、1つが40年位前、もう1つが25年位前、最近のものでは4年前につくったところがあった)。このように、仏教の普及が遅れたという事情も考慮すべきであろう。こうした仏教への信仰が弱い背景には、精霊信仰が強いという事情が推察される。

4 新築儀礼と得度式

4.1 新築儀礼

新築儀礼は司祭にいつ実施したら よいのか、日にちを聞くことから始まる。当日の前日の夕方か当日の朝早く、土地神に儀礼執行の許可を得る。この儀礼はピティ・オーイ・バイ・クローン・パ リ(ピティ・ハイ・カオ・メートラニー)といい、司祭がおこなう。地母神の人形を米粉で作り、ごはん、おかず、酒などと一緒に祈願した後に、土に埋める。 その上に砂をかけ、3本の木枝を建てロウソクと線香をたてて終わる。すべての儀礼に先だって、土地神に儀礼執行の許可を得るこの儀礼は必ずおこなわれる。

新築儀礼当日は、ほかの儀礼と同じようにリアン・タカーン(liang takan)を家の東に運んできてごちそうを備え、司祭がロウソクと線香に火をつけて祈願が始まる。この祈願は天界から天霊(tewadaテー ワダー)に降臨してもらい、儀礼の席に臨席してもらうためである。リアン・タカーンというものは、村人によると、タイ語のチャオ・ティ(サン・プラプー ム)にあたるという人もいるが、言葉の直接の意味は「もてなしをする場所」という意味である。また、家の施主の夫が出稼ぎ先で死亡しいないので、兄とその 妻が代わりの役を勤めた。夫婦1組でないと施主を勤めることができないからである。このように、夫婦1対で儀礼の施主を勤めることは、ほかの儀礼でも多く 見られる。

その後、家の周囲を家族と親族が 家具類などを持って3回右周りに回って、玄関から家に入る。玄関には、土鍋の蓋と葉がぶらさげられており、また水で足を洗ってから家に入ることになってい る。土鍋は鍋にお金や金をしまえるように、葉(クランの葉)は財産を隠しておけるようにという意味である。

玄関先で、先ほど降臨したテーワダーの役を司祭が勤め、村人はプラームの役、もう一人が彼に傘をさしかけるお供の役で現れ、両者の間で問答がおこなわれる(こうした問答は葬式にもある)。そのさい、以下のような会話がおこなわれる。

「ター・プラーム(ブラフマンの おじいさん)よ、どこから来たのですか」「キノコの芽から来ました」「何を探しにきたのですか」「聞いたところでは、仏陀がお話になると、経典について尋 ねに来たのです。仏陀様、献上に来ました。」「どうぞお入り下さい。」最後に、プラームが仏陀を称える文言「ナモサタ バカヴァト・・」を唱えて家に入っ て終わる(葬式儀礼では、女性神の役の3人がそばに控え、その女性神と司祭の問答が続く)。それが終わって、家に全員が入ってから、部屋のなかで招魂儀礼 であるハオ・プルン(リアグ・クワン)の儀礼をおこなう。

部屋のなかにプラプームという柱 を立て、そこに刀と銃が縛りつけられている。これは、夫婦間の合意を重視することを表し、もし違反したらこれで殺すというメッセージを伝えているという。 また、悪霊を追い出す意味もあるという。司祭が柱に縛りつけた篭(なかにはゆでた鶏肉と線香、ロウソク、酒が入れてある)のなかと柱の下の線香とロウソク に火をつけ、儀礼を始める。この篭に入ったものを「天霊を祭祀するもの」と説明していた。

柱の前には布団が敷かれ、枕の上 にはキンマ用の鋏と石灰を入れる道具が置かれている。これは、祖先霊を迎えるためのものである。施主の代理の夫婦が布団の上にあがり柱に向かって三拝し、 酒と銀の皿(なかにはトロウイ一式と線香、ロウソクが入っている)を司祭に手渡して始まる。始めに、司祭は1人で祈願し、その後夫婦の手首に白い麻糸を振 り子のように振って7回なぞり悪霊を払う。祖先霊と悪霊、そしてすべての霊の計3種類の霊に分けて3回、ごはん、おかず、酒、ジュースなどをあげる(ビ ニールに入れて外に持って行って3回捨てる)。これは、すべての招魂儀礼でおこなわれる点で共通している(ただ、儀礼の種類によって、先祖霊のほかに土地 霊ないし地母神、それと悪霊とすべての霊を一緒にした3回もある)。

その後、19回 白い麻糸で夫婦の手首をなぞりプルン(クワン)を招き呼び寄せる。この後、周囲の人に向かって司祭が「みんなはそろっているか」と声をかける。周囲の者は 「一杯だ、満員だ」と交互に、しかも裏声で(天霊の来臨を象徴的に示している)繰り返す。司祭が夫妻の手首に白い糸を巻いて終わる。ここまでは、すべての 招魂儀礼に共通して見られるものである。

ここまでは、すべての招魂儀礼ハ オ・プルンないしソム・プルン(リアグ・クワン)の儀礼で同じである。ただ、柱に国王のカレンダーをかけている点だけが相違しいている。国王をかかげるの は、国王がすべてのなかで一番の勝利者だからであるという。これはほかの儀礼では見られないことである。

それから、代理の夫婦に代わっ て、施主の女性と娘が布団の上にあがり、司祭に皿を渡して、再度儀礼がおこなわれる。司祭は2人の手首に糸を巻き、女性が皿(お金がのせてある)を司祭に 手渡しす。司祭は「ナモサタ バカヴァト・・」を唱え、その後聖水(ナンモン)を施主に振り掛けて終了する。

司祭によれば、テーワダーが来臨するのは曜日によって違っているという。それは、以下のようである。

   曜日    月  火   水    木     金    土    日

天霊の来臨時間 8−9時 昼 午後2時 夕方3−4時 朝6時 朝7−8時 朝6時

4.2 得度式

先に見てきたリアン・タカーンの 儀礼と招魂儀礼と同じ段取りでおこなわれる。当日、午後から、招魂儀礼が部屋のなかでおこなわれる。その後、家の外で頭髪を切る。午前中にこれらが終わる と、午後から外の式場に移って、儀礼がおこなわれる。外には、7段におかずやごちそうが盛られたバイシー(bai si)が置かれている。その周りは絹の織物で巻かれていて、なかのごちそうは外からは見えない。その一番上には白い白米とゆで卵を乗せ、バナナの葉で包む。そのそばに、司祭が米粉でつくったクルットに乗ったヴィシヌ神(phrom si na)が刺してある。これは外から見えるように刺される。

夕方、僧侶5人が来て座り、再び儀礼が始まる。僧侶が帰った後、司祭がさきほどと同じ段取りで儀礼をおこなう。最後に、司祭は周囲を19回回った19本 のロウソクを束にして一気にその煙を志願者に吹きかけ、バイシーのなかにあった卵と椰子の実の水をまぜて口に運ぶ、その後バイシーのなかからおかずやお菓 子をとらせて食べさせる。手首に聖糸を巻き、聖水を振り掛けて終わる。こうしたやり方は司祭によって多少相違している。

翌日、寺院に志願者と一緒に出かけていき、得度式をおこなってすべてが終わる。

その後、俗人に戻るさい、還俗儀 礼をおこなう。当人は数日前に還俗する旨を村人に触れて回る。そして、当日、寺院で式をおこない、服を普段着に着替える。そして、司祭に導かれて寺院の敷 地と道路の境で、東のほうを向いて司祭の祈祷を復唱し、はりめぐらした白い糸を司祭がロウソクの火で焼き切って、当人は境界から象徴的に出てくる。その 後、寺院にきた時と同様に、村人たちが当人に傘をさしかけて歩いていき、家のなかで司祭によって招魂儀礼をおこなってもらう。これは、既に見てきたのと同 じ段取りでおこなう。こうして、俗人に戻るのである。

4.3 考察

新築儀礼に限らずほとんどの儀礼ではまずリアン・タカーンの祈願から始まる。これは、天霊(テーワダー)の来臨をお迎えするためである。聖糸がリアン・タカーンからプラプームにはりめぐらされており、天霊はそこから部屋のなかのプラプームへと移っていく。

これを村人は招魂儀礼(リアグ・ クワン)と説明しているが、得度式のさいの招魂儀礼にみられたようなバイシーを作っておこなうものとは異なっている。後者はロウソクの煙を司祭が吹きか け、バイシーのなかに入れておいた食べ物を口に含ませることによって、魂を身体のなかに取り入れるものである。しかし、前者の方法ではそうした行為はな く、悪霊を始めとしてすべての霊を供養し払うことが中心的な中身になっている。従って、招魂儀礼には主として2つの方法があることになる。つまり、バイ シーを作る方法と作らないでする方法である。そのさい、前者は後者を含んでいる。また、魂(クワン)の数は32ではなく、1つと考えられている(司祭によっては19と説明している)。

それから、新築儀礼で見たよう に、プラームの神の具象的な姿が印象的である。神が目の前に現前するのは、クメール以外では少ないだろう。祈願・祈祷の最中、司祭も周囲の人々も裏声で奇 声を発することがしばしばあり、これは神の臨席、現前を象徴的に表している。招魂儀礼では先祖霊にまず儀礼執行を知らせ、悪霊を始めすべての霊を供養して 払う。これは、どの儀礼でも必ずおこなわれるものである。

また、プラプームの柱に縛りつけ られている篭のなかのものが天霊を迎える食べ物と解釈していること、キンマ用の道具を枕においておくこと、プラプームをチャオ・ティと説明していることか ら、天霊と先祖霊、土地霊の混交なしい複合が見られる。従って、天霊が降臨して来るが、それは先祖霊の性格を合わせ持っており、柱に依ることで土地霊と一 体になる、と考えられる。それでは、魂はどのようにして身体につなぎとめられるのであろうか。司祭がおこなうなかで悪霊を7回払い、併せてプルン(クワ ン)を19回呼び寄せていることが、それにあたる。その後、聖糸を結ぶことと聖水を振りかけて終わる。

それ以外で、儀礼のなかで特徴 的なことは、施主の夫婦が対でないと執行できないことである。たとえば、稲魂迎えの儀礼や集落の守護霊儀礼、新築儀礼、農耕儀礼など多くの儀礼がそうであ る。新築儀礼でも、夫婦1対の重要性が強調される。また、新築儀礼のほか、結婚式や得度式などでおこなわれる招魂儀礼では、必ずプラプームに刀と銃が縛り つけられている。その意味は、夫婦間で合意が大切であるというものである。つまり、離婚してもよいが、合意が大切であるというメッセージである。また、実 際に離婚が大変少ない(離婚12人、停止2人、よそに住んでいて妾のいる人1人)。結婚式の最後に共食儀礼があるが、そのさい司祭は対であることがいかに重要であるかということをロウソクを対にして説明し、その対のロウソクを仏壇においておくように指示して儀礼が終わる。

5 比較考察

 北タイも東北タイも人々の世界観・他界観は基本的には同じである(Anuman 1988:39-40)。にもかかわらず、儀礼の仕方が異なっていて、それを手がかりにして信仰の相違について少しく考察することができる。

筆者の経験では、北タイでは新築儀礼は僧侶がおこない、ここで見たような招魂儀礼は一切ない。ただ、合わせて長寿儀礼(su chata chibit)をすることが多い。タンバイアは新築儀礼を仏教儀礼に入れているが、これは北タイのように僧侶が新築儀礼をおこなうことが想定されている(1970:338)。その点で、彼が調査した村の新築儀礼は、プルアン村で見たような招魂儀礼はないのであろう。また、得度式はここで見られるような招魂儀礼はない。キングスヒルの調査報告をみても同様のことが指摘できる(Kingshill 1976)。タンバイアが伝えているところ(1970)や小野沢が伝える中央タイのタム・クワン・ナーク儀礼と比較すると(1982,1983)、東北タイ北部や中央部にはプラプームを立てておこなう招魂儀礼がなく、バイシーを使う招魂儀礼のみがあるということになる。

このように、クメール人の場合 は、招魂儀礼が中心をなしており、天霊が祖先霊、土地霊、水霊、仏陀と一体になって複合的に観念されている。言い換えれば、状況によってこれらの組み合わ せが変わって現われているといえる。従って、祖先神が卓越しそれは稲魂でもあるが土地神の性格は弱いというクメール人についての岩田の理解は、多少の修正 を要するといえる。その意味では、クメール人の場合、ほかの地域と比較して仏教が深く浸透しておらず、仏教が卓越していないといえる3)

また、夫婦1対の重要性は御神体 が男女で表象されていること、および施主は夫婦対でなければ儀礼を実施することができないとされていることに見られるように、クメールのなかでは夫婦の対 が大変重んじられている。この点もほかの地域の人と比べると、特徴的である。儀礼のなかで繰り返されるこの理念は、村人の観念のなかに絶えず注入される契 機になっている。

さらに、タンバイアがテーワダーとピーを徳(bun)と地獄(bap)、生命と死に対応させているが(1970:59)、彼は仏教と精霊信仰とを二項対立図式(相補的)で考えすぎているように思われる(1970:338)。少なくとも、クメールの場合には、葬式時にあっても天霊が降臨し死霊を天界に導いていくと考えられているように、天霊は生命の領域だけに限られていないのである。

田中忠治はタイ人のサクシット(神霊力)の世界、つまりサイヤサートの世界を霊(ピー)と神を含む世界とし、霊のアニミズムと区別して考察を加えている(田中1989)。今回の報告は、事例の報告を兼ねているため、理論的な考察を十分展開できなかったことから、具体的な事例の紹介をしつつ、今後は田中の理解を含めて理論的な検討をさらに加えてみたい。

(付記)

これまでタイ在住のクメール人の農村調査はロイエット県のシーサワン村・サワン村、スリン県のクワシナリン第1村、およびスリン県プラサート郡のプルアン村である。ロイエット県の村は150年 程前にスリン県プラサート郡から移住してきた所で、周囲をラオ人に囲まれているためラオ化が進んでいる。クワシナリン第1村はスリン市近郊で銀細工が盛ん なことで有名で、都市化が多少とも進んでいる。村々の社会的・地理的諸条件の相違によって、農村生活および儀礼が異なることを想定して比較調査を実施した が、プルアン北とプルアン南の村は、比較すると古い儀礼を豊富に残していることがわかる。この村では、1998年の9月から翌年の3月まで定着調査をおこなった。

1)森幹男は農村をフィールドにしたものではなく、国王の儀礼を取上げて仏教とクメール儀礼の問題などを明らかにしている(森1980ほか)。

2)筆者は既に家族と村落については発表している(1999)。

3)なお、ここでは紹介できな かったが、前髪落とし儀礼では、父母の魂が子供の魂を呼び寄せるのに利用され、そのさいロウソクを父親は21本、母親は12本に点火する。これは、岩田は 理由を聞くのを忘れたといっているものであるが、男女の元素論に由来している。こうした側面も仏教が弱い一面として指摘できるだろう。以下のような元素か ら男女は成っている。なお、加藤と川野は父母の徳は33あり、父親は21、母親は12あると指摘しているが(1992:25)、これはこの元素論に基づいたものである。

元素   土   水   風   火

 男   21   0   6   7

 女   0   12   6   7

4)森(1980)を参照されたい。 

引用文献

Anuman Rajadhon, 1988[1968]. Essays on Thai Folklore. Bangkok: Thai Inter-Religious

Commission for Development & Sathirakoses Nagapradipa Foundation.

———————1984、森幹男編訳、『タイ民衆生活誌(2)』、剄草書房 

岩田慶治、1969、『東南アジアのこころ』アジア経済研究所

同  、1990[1970].『カミの誕生』講談社学術文庫

 同  、1991[1975]、『日本文化のふるさと』角川選書

Kingshill, Konrad. 1976[1960]. Ku Daeng ?A Village Study in Northern Thailand-, Bangkok:Suriyaban Publishers.

Kato, Yutaka and Kawano, Misako. 1992. Persons, Merit, and Power in Northern Thailand-An Anthropological Study-,『東海大学 文明研究所紀要』12号、東海大学文明研究所

小野沢正喜、1982、「宗教と世界観」綾部恒雄・永積昭編『もっと知りたいタイ』弘文堂

 同   、1983、「タイにおけるタム・クワン(スー・クワン)儀礼」『儀礼と象徴』九州大学出版会

森幹男、1978、『東南アジアー土俗の探求ー』、平文社

Sato, Yasuyuki. 1999. Change and Continuity in Community and Family in Thai-Khmer Village. Proceeding Paper of Conference of First Asian Rural Sociological Association.

Smet Kongsawat. 1988. Kwaam chuwa kong chao ban pluang tanbon ban kanaeng amphu prasat cagwat surin [Belief System of Villagers of Ban Pluang in Kanaeng Subdistrict, Prasat District, Surin Province].prinyaniphon mahawitayarai srikrinthon wirot mahasarakam.

Tambaih, Stanley J. 1970. Buddhism and the Spirit Cults in North-east Thailand. Cambridge University Press.

田中忠治、1989、『タイー歴史と文化』日中出版

図1 バーン・プルアンの開発経緯

年次 出来事

1891**プルアン・ワーリ寺院ができる

1914(およそ)行政村が設定される

1932 寺院のなかに小学校ができる

1958 *ノーン・プルアンに既に家が建っていた

1962 電気が通る

1963 オーグ・パンサーでクワン・カオ・ティプが再開される

1965 小学校が新たに独立して建てられる / *オ−トバイが村に初めて入る

1968 *国境警察のキャンプが置かれる

1969 村の一部がニコムに含まれる

1970 {高校がプラサート町にできる}

1975 プルアン遺跡が修復される

1981 第1村と第2村に分離する

1983 米銀行ができる

1986 キリスト教団体から資金提供を受けて協同店舗ができる

1989 所属の区がカンエーン区からプルアン区に改編される

1990 葬式組合を自主的に結成する

1991 シンガポールへの出稼者が急増する

1992 (第1村)村落基金できる(第2村)新たに協同店舗できる

1993 日本からオイスカが植林に来る /(第1村)池が掘られる

国会議員から放送器が両村に提供される /(第2村)婦人会が再結成される

1996 火葬台の設が決定される{区全体の衛生委員・ボランティアの葬式組合}

1997 小さい灌漑用水が建設される /(ノーン・プルアン)放送器が提供される

(第1村)薬銀行できる /(第2村)水利用組合ができる / オーボート制度が

     敷かれる

1998 公共電話が設置される /(ノーン・プルアン)道路が整備される

注)*は岩田の調査による。**はSmetによる。

}は広い地域のこと、( )は各行政村・集落のことを表わす。

出典)筆者の調査による

資料1 年中行事

 祭祀期日(該当の西暦月日)

khun 1 kham dwan 5 (3.17)   phukao sawai に登る(頂上の寺院をお参りする)

4.13-15  song krang (rot nam kon kae, rot nam phra,ruam trot) 旧新年祭り

(昔は khun 1 kham dwan 5以降4月末まで仕事休み、今は3−7日間休む)

rem 1 kham dwan 6 (5.10)    wan wisa kabucha (仏誕祭)

rem 1 khaam dwan 8 (7.09)    wan kao pansa  (入安吾)

khun 15 kham dwan 10 (9.05)   ben toi [sat noi]  (秋季祭)

 rem 14 kham dwan 10 (9.19) ○*don ta  (祖先祭祀)

rem 15 kham dwan 10 (9.20) ben tom [sat yai]thin hai phi ta yai(船に供

                 物を乗せて水に流す) 

9.23 bai ben を田に撒く

9.27- 一連の出安吾(oog pansa)の準備に入る

10.05 kor kao thip[kwan kao thip] 

10.06              oog pansa, thak bat teo (出安吾)

 10.08-18 (よその村の寺院で krong kan pathibat tham があり、それに参加する)

      1. thod kathin  (黄衣献納祭)

khun 13 kham dwan 12 (11.03) loi kratong 1030日以降準備をする)

        1. son ta phi kao(旧年送り)pha pa             sen len chanam tamai [sen suwan phi mai]

1.02-3   *tambun srimonkol phi mai (昔はtambun nimon phuraといった)

1.15               sen ta (集落の祖先祭祀・守護霊儀礼)

khun 3 kham dwan 3 (1.19)    sen ta prasat (遺跡での儀礼)

khun 15 kham dwan 4 (3.01) wan makabucha  (仏聖日)

3.07 tuk chiad [thet maha chat] (大生経祭)

注)仏教儀礼・寺院以外には○、個人的儀礼には*を付した。( )は1998年4月から99年3月の該当月日。

資料2 治療儀礼

kae krua (sad khro)  悪霊払い(司祭・僧侶による)

phiti dain priang (phiti tham phram)    悪霊払い(chor memotによる)

phiti suroi tok muong (phiti rod nam mon)  死霊払い(司祭)

phiti bunko yamrai (phiti sia kro kae sadiat chanrai) 悪霊払い(司祭)

phiti plom (pao)               悪霊払い(achan plomによる)

phiti ooi bai krong pali (hai kao maee torani) 土地霊供養儀礼 (司祭)

資料3 農耕儀礼

wan putmonkol (5.08) cho sare (long na)  始耕祭

phiti chap dam pui (phiti lek na]      一番田植え

sort muon trai patoa (kanpuria), hen nam maeo雨乞い儀礼

 sen bok surao(sen nuad kao)        脱穀儀礼

yo gai sare (ao wan kao)        初穂入れ

hao prung surao (riak kwan kao)    稲魂迎え

資料4 人生儀礼

phiti tok kanpoi or rup chamop

 (wai pom chu, wai kunpoi) 前髪結儀礼

phiti surai ka (wai mo tam yae) 産婆祝い

kon chu (kon chu)       前髪落とし儀礼

buad nak           得度式

sa luk (suk phra)        還俗式

phiti sen gan (phiti tengan)   結婚式

phiti ayo tom (phiti ayu to)   長寿儀礼  

wan kamoi (ngan sop)   葬式

資料5 建築儀礼

ran san phra phum (khun san phra phum)  土地霊祠建築儀礼

khun patia tanmai (khun ban mai) ○新築儀礼

sen prung tasor (phiti yok sao) ○一番柱の儀礼

phiti khrong kharing (phiti yok sao yun chan kao) 米倉一番柱儀礼

 注)これらすべての儀礼には招魂び(liak khwan)儀礼を伴っている。

   夫婦(男女)が対で主催する儀礼には○を付した。

資料6

農業 全戸351戸、土地なし35戸(10%)

耕作地合計 3748ライ、不耕作地 751ライ 1戸平均耕作地 10.7ライ

共働・共食のケース 18戸(5.1%)

農地貸与のケース   69戸 夫は47人、577ライ、1人12.3ライ

        (19.7%)妻は49人、506ライ、1人10.3ライ

出稼ぎ 過去合計   215戸、340

    昨年出稼ぎ中 126戸、192人(失業して多くの人が帰省している)

外国の出稼ぎはシンガポール、台湾が多い。外国出稼ぎ経験者82

オートバイ所有率 262戸、74.6%;耕運機 103戸、29.3

借金の金額
農業・農協銀行52戸、204万バーツ;農協151戸、590万バーツ;高利貸し115戸、539万バーツ;親族118戸、1516万バーツ;銀行23戸、406万バーツ;貯蓄銀行65戸、93万バーツ、村落基金61戸、6万バーツ、など

資料7 婚姻圏

婚姻圏を調べてみると、同じ第1村どうしが65人、39.9%、同じクワシナリン区が28人、17.2%、同じ郡が20人、12.3%、スリン郡が14人、9.2%、スリン県内が13人、8.0%、スリンを除く東北タイが13人、8.0%、東北部以外の県が7人、4.6%、両方移ってきた人が3人となっている。

資料8 男女別相続規模

相続していないケースの51戸を除いて検討してみると、夫が相続しているケースが230人、4491.9ライ、1人平均19.5ライ、妻が相続しているケースが210人、2626ライ、1人平均12.5ライになる。