研究史聞き取りの会〜赤木攻先生〜

質疑応答

村上忠良:

ありがとうございました。研究史を聞き取るということで、一人の研究者の研究史聞き取りなんですけれども、赤木先生とタイの関係は、研究者と研究対象という客観的に研究する人と研究される対象という感じではなくて、赤木先生の研究はタイを対象にしているのですが、タイの在り方が赤木先生の人生に大きく影響していて、主客の分離ではなくてそこが絡み合っています。本当にたくさんタイの方とお知り合いで、そういう意味では冷徹な研究者というよりはタイとずっと関わりあってこられた生き様というものを感じ取れるようなお話だったと思います。色々聞きたいことが皆さんあると思います。30分くらいお時間いただいていますので、ぜひともこの機会に色んなことを赤木先生から聞いていただきたいと思います。

質問①:

特に先生がチュラーロンコーン大学に留学した頃のお話を聞いて、先生が当時に見たチュラーロンコーン大学と自分がタイにいた頃と随分変わってきたなと思いました。地域研究のお話を聞いていて、自分もこれから現地調査に取り組んでいくところですが、現地の住民と信頼関係を作ることが大事なんだなと認識しました。ありがとうございます。お聞きしたいことが一つあるのですが、日本タイ学会の設立のきっかけと経緯についてもう少し詳しくお聞きしたいです。

赤木攻:

1990年は、まさに私にとって拙目の年です。「日本タイクラブ」も同じ時期に創っているんです。日本タイクラブというのは、市民レベルでのタイと日本の友好関係を目的とした任意団体です。それから、私が当時住んでいた泉佐野市、今の関西空港のあるところですけれど、そこで「地球交流協会」というのを立ち上げています。三つとも、偶然1990年です。僕がやったというよりも、日本がそういう時代にあった。アジアとの関係が新しい局面にきた時代じゃないかと思います。アジアだけでなくて外国と考えた方がいいのかもしれないですが。タイ学会についていえば、北原先生と、自分たちだけで籠っていて内々で話をしているだけではだめだ、やっぱり皆さんと一緒に考える機会を持ちたいと、調査研究の中でそういう話が出て、すぐに学会を始めるのは難しいから、「セミナー」という形態から始めることになりました。これは1泊セミナーで、タイに関心のある人が一緒に集まってワイワイガヤガヤと話をしましょうというものです。学会のような規則はなく、いわば研究仲間の1泊旅行みたいなものですね。それを最初にやったところ、徐々に大勢の皆さんが参加するようになりまして、学会にしようかということで学会に切り替えたのです。そういう一つのステップを置きましたから、うまく立ち上がったのではないかと思います。そして今これだけ大きな学会になってきましたから、そういう意味では私は非常に嬉しく思っています。多分私が考えなくても、誰かが学会創設を考えたとは思いますが。

質問②:

お話を聞いて思いましたのが、ちょうど70年代前半にタイにいらっしゃったじゃないですか。その頃は田中角栄首相が訪タイし、大規模な反日デモがあったりして、どんな時代だったんだろうかと。私は80年生まれで全然分からないのですが、当時から今までの日本に対する感情とか、日本とタイとの関係のところでご経験を伺いたいと思います。

赤木攻:

反日はアジアではインドネシアが一番激しかったです。タイでは、対応したのは学生団体の何人かが、角栄と会って話をしました。その内の一人は今日本に住んでいて私も親しいのですが、日本語を勉強していたから彼女が選ばれて田中角栄と話をしたのですが、そんなに激しい意見を持っていたわけではありません。ただ、当時はタイの人にとってはびっくりするくらいの日本の経済的な攻勢でした。当時よくいわれたように、SEIKOの目覚まし時計で起床し、歯磨きはどっかで、服を着たらなんやら製、もう日本製ばっかりなんですね。そういう歌も流行った。しかし根にあったのは、これは指導者のティーラユット・ブンミー(Thirayuth Boonmee)さんに1回だけ聞いたことがありますが、やっぱりタノーム・プラパート体制への軍部独裁反対運動があった。直接そのことを言えないから、国産品愛用運動をやったんですね。日本製品じゃなくてタイ製品を使う運動です。あれは明らかに、タイの現状に不満を持つ学生たちの反政府運動でした。今の体制ではだめだという認識の上で、本当は反政府運動をやりたいけれどできないから、反日をとっかかりにしてやった面が強かったんじゃないですかね。ですから大きな問題にはならなかったですね。今、韓国の駐在員の行動が嫌われているところがありますが、日本人のふるまいの中で好ましくないところがあったのは事実です。多分ご存知ないと思いますけれど、「サニーシャトー事件」という考えられない事件が起こりました。サニーシャトーはバンコクで一番有名な高級ナイトクラブで、そこに勤めている一人の女性が、大勢お客がいる中で、突然マイクを取って「皆さん、この人は日本人で、ものすごく悪い人です」と言って、ピストルで射殺した事件が起きたのです。非常に衝撃的でした。そういうこともあったのですが、タイの人もまだ勉強ができていなかったのだと思います。自分たちで製造業を立ち上げて発展させていくのは本当に難しいことで、それを外国企業と一緒にやっていくということはいかなるものであるかということについて、タイの方の理解も十分ではなかったのではないかと思います。本質的なところでは、反日とはいえちょっと違った反日。僕の友人もそれを言っていましたからね。だからそんなに大きな反日にはならなかった。特に印象的でしたのは、日本人でタイ人と結婚して子どもさんが普通のタイの学校に行っている場合でも、いじめがなかったそうです。タイの場合はそれが普通なのか分かりませんけれど、「あいつは日本人だ、日本はあかん」というのはなかった。つまり、そんなに大きな問題はなかったと言えますね。石井先生、吉川先生と『中央公論』に全訳しましたが、「Phai luang(黄色い禍)」という特集を組んだ雑誌もありました1。しかし経済の発展段階では、ある程度仕方がない面があったかもしれません。そういう印象です。私が行った60年代とか70年代は、まだまだエアコンが付いた車なんてほとんどなかったし、道路も整備されていなかった。僕はバスばっかりで移動していましたけれど、バスもまともなバスは1台もなかったと思います。雨が降った時は大変でしたよ。反日運動については、それくらいですかね。タイの人にとっては、朝から晩まで日本製品というのは嫌なことは嫌だったと思います。答えになってないかもしれませんが。

質問③:

私はタイ語専攻卒業生で、今言語文化研究科の修士1年で勉強しています。タイ語の勉強をしている学部生や院生の若い世代の人たちに、今先生が知ってほしいことや伝えたいことはありますか。

赤木攻:

うーん難しいな(笑)。僕の時代は希少価値がある程度あったのですが、今はタイなんて普通じゃないですか。「『天使の都』に浮遊する日本人」2に若い人のことを書きましたが、みなさん押しかけて、タイ料理やタイ・ファッションを楽しむなど色々あると思います。それはそれとして、研究者として修士とかで学ぶ人には、基本的には読書力、読解力をつけてほしいですね。そして本を読んでほしい。今の若い人は、いい加減な調査票作って貧民街に入っていって、ちょちょっと調査票集めてすぐに発表するケースが多いですね、ああいうのはよくないなあと思っているんですよ。特に古典的なもので、そんなに良いものはあんまりないのですが、でもやっぱり昔の人が書いた本とかを読んでほしいです。タイ語はある程度古い時代のものでも、言葉自身がそれほど変化していない。日本は明治時代のものは読みにくいものがありますけど、タイ語は読めますから。できるだけ読書量を増やしていただいてと思いますね。安易にちょちょっと行って、福祉の何とかとか困っている人がどうのこうのとか、それはそうなんだけれど、インタビューとかちょっとした調査で発表するのは、あんまり。もうちょっときちっと押さえてほしいなとは思いますけどね。それくらいかな。

質問④:

その昔、バンコク日本語学校、チェンマイ日本語学校で教えられていた冨田竹二郎先生について、何かエピソードをお伺いしたいなと思います。

赤木攻:

エピソードめちゃくちゃあるんですけれど(笑)。僕は一般的に人間もそうだし動物も植物も、突然変異が好きなんです。社会とか発展するために突然変異がないと生き物は前に進めないと考えています。社会も同じだと思いますけれど。冨田先生は、神戸の生まれで、播磨灘では神戸から姫路まで結納の飾りでめちゃくちゃ有名な冨田屋というお店のお生まれなんです。外大の学生時代には人力車で県知事公舎に出かけ、家庭教師として師弟に教えておられたくらいのおうちなのですが、神戸の人の新しい流行りものとか食べ物とかよく知っているわけですよ。レストランに行っても、これがなんやこれがなんやとすぐに説明されました。神戸の新しい文化を身に着けておられました。神戸からは色々有名な人が出ているのですが、家が4、5軒離れて、台湾華僑の小説家陳舜臣さんが、この方も外大ですが、住んでおられたと聞いています。神戸二中から外大(大阪外国語学校)に入られましたが、英語の勉強したうちにちょっと面白いからといって、卒業してフランス語と中国語をまた勉強されて、7年か8年外大におられた。落第しないで在籍した年月で最長記録を持っておられるとも聞いています。

ちょうど戦前の何年か詳しくは分かりませんけど、日本とタイが文化協定を結んでいるんです。ちょうど戦争の4、5年前です。その中で、言語分野と歴史分野と医学分野、この3つの分野から日本から留学生を送ったんですね。言語から冨田竹二郎、歴史が河部利夫、もう一人は九州大学の森(良雄)先生。聞くところによると、河部先生は戦争前に帰ってこられた。冨田先生は終戦までおられてバーン・ブアトーン収容所で捕虜生活を送られました。結局どのくらいおられたか詳しくは分かりません。中国語をやっておられまして、中国語がめちゃくちゃ詳しい。ですからおそらく選抜されてタイへ送られたのだと思います。だから辞書を見ても分かるように、タイ語の中国語語源の部分はだいたい全部辞書の中に出てきます。

僕らの時の服装も、帽子をかぶり、たばこはパイプでしたからね。パイプくわえて、こんなん大学の先生かなと最初思ったぐらいです(笑)。いつも寝る時本を読まれますが、多分タイの古典の本を読んでおられたと思います。僕なんか分かりませんよ、古典なんて。私は冨田先生の家に下宿したことがあるんです。その時もタイの古典ものをよく読んでおられましたね。国際交流基金から派遣され、タイの学生のための日本語教科書をちゃんとせなあかんなあと言っておられました。戦前行かれた時にはチェンマイでも教えておられたし、バーン・ブアトーンの捕虜時代には、抑留者だけのためのタイ語学校を開いてはったと思います。バーン・ブアトーンの中に色んな学校ができたんですよ。麻雀好きな人は麻雀学校とか、絵の好きな人は絵画教室とか。冨田先生はやっぱり言葉が好きなことと、合理的なところがある。神戸のせいかな、新しいもの好きとかそういう面もあるし。

それから料理が好き。私が一緒にいても、朝ごはんはたいてい先生が作っていました(笑)。そして時間が来ると食べないと気がすまない。奥さんがちょっと遅れると、もうあかん。自分で作りはる。タイの田舎一緒に旅行した時も、あの先生と行くと楽ですよ。店に入っていってメニューを見て、店主にこれ作れるかと聞いてちょっとしんどいと言われると、台所に入っていって自分で作られた(笑)。タイの人びっくりしていました。料理は好きだったですね。

あとエピソードといえば、タイの文字に非常に思いがありました。皆さんご存知だと思いますけれど、モトヤという日本の会社で、冨田先生がタイ文字の活字をデザインした。冨田先生がデザインした活字が、タイの教科書に使われたんです。鉄筆、ガリ版もむちゃくちゃ上手でしたよ。ガリ版で刷ったほやほやの教科書みたいなものを、毎回授業で配布されるわけです。それとやっぱり、僕もやりましたけれども、邦文タイプを見事にこなしておられました。僕は石井先生と一緒の時に邦文タイプ打ち初めましたが、グリコ事件の時に捜索を受けました(笑)。あれはびっくりしましたけどね。僕の時は簡単なミニのタイプでしたが、冨田先生のものは本格的で、これをいちいちカチャンカチャンと打っては打って、本当に大変だったと思います。職人芸みたいなことろがありましたね。

あとは海釣り。三重県の尾鷲を皆さんご存知ですか。あそこは台風で有名な所で、そこに一時期小屋を建てはって、釣りに通われました。僕もよく行きましたわ、一緒に。松阪の駅の階段を魚の入ったバケツを持って登りました。重たかったのを覚えています。釣りは好きでした。ですから、先生の辞書の魚の部分は説明が長いと思います。

質問⑤:

今回の著作『タイのかたち』は構想10年とお伺いしておりますが、その中で一番苦労されたエピソード等がありましたら、教えていただきたいと思います。またもし余力ありましたら、先ほど突然変異がお好きということをおっしゃいましたが、プーミポン国王は突然変異とお考えでしょうか。

赤木攻:

1999年に外大の学長になりました。ちょっと早すぎたんです。僕まだ54歳でしたから。だから、本を読む時間が基本的になくなってきたわけですね。自分としても情けないし、どうしようなかと思っていましたが、タイはどんな国かというのを究めるのが私の仕事であることはよく分かっていました。その思いだけは、自分で考えながら大切にしてきました。しかし、実際にはなかなか時間が取れない。詳しいこと調べようと思っても時間が取れないので、これはいけないと自分に言い聞かせてきました。特に今回本を出してある程度の人から反響があったんですけど、いわゆる研究者ではない方から、「先生のおっしゃる通りや、私もタイ人に会ったことがない」と5通ぐらいの手紙が届きました。皆さん昔から思ってはったんだと思うんですね。そういうことを考え始めて15年くらい経つんですけど、なかなか本はちゃんとできないし、苛立っていました。何がしんどかったかといわれると、時間が取れなかった。何かあれば行かなきゃならないし、会議がやたら多い。あとは毎年1回か2回はタイへ行ってチャローンさんとか色んな人と話をしていましたから、そういう面で救われたかなと思います。時間を取ることと、健康を維持することは大変だったというのが一番かな、執筆の上ではね。

プーミポン国王は、突然変異かもしれない。僕は本にも書いたと思うけれど、プーミポンも外来人だと思っているんです。彼は教育をタイで受けていないし、スイスかどっかで育って突然タイへ帰ってきたわけですから、それはタイの社会にとっては突然変異かもしれませんね。そういう意味では、プーミポンさんも突然変異ですね。だからそういう人でないと、変革することはなかなかできないというのが私の考え方で、ノーベル賞をもらった方でも普通の人はいません。突然変異ばっかりです。そういう意味です。

質問⑥:

『クルンテープ』の連載の中で、大阪外大にいらっしゃった時に、語学編成だったのを講座制に変更する流れの中で、「アジア研究会」という、タイ研究だけではなく、他のアジアを研究している方々と研究会を立ち上げられたというお話を書かれています。タイを理解するためにも、個別性と普遍性、比較の視点を持ってこそタイをよく分かるということ書かれていらっしゃいます。当時研究会を立ち上げて、他の国の研究をされる方と一緒に研究を進めながら、一番考えていたタイの個別性、もしくは比較の視点から言えばタイの個別性とかもしくは東南アジア、アジアの研究を始めて、個別性と普遍性ということを非常に重要だと考えたと書いていらっしゃったので、当時何を一番考えていらっしゃったのか、もう少し教えていただければと思います。

赤木攻:

僕が外大で一番しんどかったのは、「語学の単科大学」をどう考えどうすべきかという問題でした。私が外大に関わった時は大学紛争は終わっていましたが、ある時考えたんです。外大で紛争が起きた背景をみると、みな言葉を学ぶことについての意味、意義なんですよ。過去に何回も学生の不満が爆発していました。なぜ学生たちが不満を持ったか。やっぱり言葉を学ぶ目的がなかなか分からない。私だってタイ語を習ったとき、カーカーカーカーカーとカラスの真似事せなあかんのかと、これが大学で行なう正義を、普遍性を求めるための行為かと思っていました。それはおいておいても、僕の時の外大は、なんやかんやいっても日本で一番大きい単科大学で、学部一つで先生200人くらいおったわけです。だけど、タイ語の先生は3人。マイノリティの中のマイノリティですよ。何の意見を言ってもだめ、全部英語とかフランス語とか、アジアでは中国語だけですよね。力を持っているのは。僕は、くそと思ったんです。これが一番大きい。マイノリティになることはいいことだと今は思っています。ただ、なんでも決める時は、そこら辺の大きい学科が決めてしまうわけです。そこで、若い人ばかりで「アジア研究会」をつくって、色んな議論をした。色んな勉強があった。それまでビルマ語の先生とタイ語の先生が話をすることはほとんどなかったけれど、この研究会でいわゆる蛸壺を壊すことを僕は狙ったわけです。それが大きかったですね。その中でやってみても、ヨーロッパ専門としている人とアジア専門の人と一緒に話をすると大きな違いがある。彼らは、普遍性は我々の方にあると思っているから、相手にしない場合もあるし、下に見る場合もある。ある種の差別的なところがありました。外大の中でも「マイナー言語」と言われて、学生の質も悪いと思われた。実際に学生も悪いんですよ、入学試験では、英語科の一番最後くらいがタイ語のトップくらいです(笑)。言われてもしゃない。だけど、それではあかんわけです。やっぱりこれはあかんと思って、そういう会を作って勉強を始めました。言語学でも文法でも、英語などを範に他の言語を説明するところがあるけれど、それはおかしいと。タイ語にはタイ語の文法があるはずだということは、いつも言語学の先生に言っていました。アジア研究会を作って勉強し始めて、大学院構想の時に私が打ち出したのが、普遍と個別。そういう意味で作ったんですね。そこが交流しないと、よく分からない。それを対文科省、設置審への下原稿に書きました。僕がそういう話をし始めたからでしょうかね、マイノリティのところから学長選挙で選ばれてしまったわけです。それで僕は学長を4年間やって、身も心もぼろぼろで、ほんと死ぬちょっと前くらいでした。家に帰ったら手や腕から血がばーっと服に付くくらい出ていました。ストレスや言われましてね、病院に行ったら。ストレスを取りさること、つまり学長を辞めることが治療であると医師に注意され、困ってしまいました。

普遍というのは、当たり前のことなのですが、アジアの方を普遍と衝突させてもいいけれど、普遍が本当に果たして普遍かどうかは難しいのではないかと言いたかったのです。そういうことを、大学院構想の中で掲げました。大学院の言語社会研究科は、私が創りました。文科省の設置審で、これいいわと言われたんです。で、通った。それまで大学院構想は全然前に進まなかった。私が苦労したのはその後で、先生の配置に困りました。どの先生もマル合をもらわないと困るけれど、色んな先生がいらっしゃるからね。マル合をもらわなかった先生からはうらみつらみを言われて、睨まれてしまいました。大体年上の先生に。だからもうしんどかったですね。これはまたどこかで話ができると思います。

質問⑦:

たしか東京外大と大阪外大で夏休み8月に交代でタイ語講座を開いて、先生が担当講師になられて、私もそれに参加した覚えがあるんです。その時は大阪でした。隔年ごとに大阪と東京を行き来するという。冨田先生が大阪でやった時は来られていて、最初の1回2回はお話をされて、あとは赤木先生と東京の方からの先生、それからタイ人の文学部の先生がおられてやっていらっしゃいました。その時に大阪外大のビルマ語専攻の院生さんから高野山の僧侶の方とかですね。まさに突然変異じゃないですけどそういう人たちがいっぱい集まって、1ケ月勉強をしました。その辺のことはこの年表に載っていなかったので、東京と大阪で、先ほどおっしゃった語学重要性ということを、質問といいますかご報告させていただきました。

赤木攻:

ありがとうございました。御元気そうで。

村上忠良:

よろしいですか。時間は尽きないと思うのですが、この後の懇親会もありますので、とりあえず今日は赤木先生の研究史聞き取りの会第1回になるのかもしれませんが、本当に今日は先生どうもありがとうございました。

赤木攻:

どうも、つたない話ばっかりですみません。ありがとうございました。

遠藤環:

赤木先生、村上先生、どうもありがとうございました。ちょっと時間はかかるかと思いますけれども、赤木先生の今日の聞き取り会は、タイ学会のホームページでテープ起こしと確認が終わってから掲載予定です。ようやく友杉先生の第1回が近々公開予定です。友杉先生は2回目のバンコクに関する聞き取りがこの間ありました。年内は難しいと思いますが、赤木先生と友杉先生の第2回、年明けどこかの時点で公開になる予定です。またそちらの方でもじっくりと読んでいただければと思います。先生、本日は本当にありがとうございました。

(聞き取りの会ワーキングチーム:遠藤環、小林磨理恵、末廣昭 [アイウエオ順])

脚注

  1. 石井米雄編訳, 吉川利治, 赤木攻協力「日本『黄禍』特集(タイ国の月刊誌『サンコマサー・パリタット(社会科学評論)』1972年4月号の全訳)」, 『中央公論』第88巻第2号, 中央公論社.および、吉川利治, 赤木攻「タイ有力誌の日本黄禍特集——日本総合商社と公害への告発」, 『中央公論経営問題』第13巻第2号, 中央公論社.
  2. 赤木攻(2003)「『天使の都』に浮遊する日本人——日タイ関係と日本人社会の変容」, 『アジア遊学』第57号, 勉誠出版.