研究史聞き取りの会〜赤木攻先生〜

北原淳先生との農村調査

ちょうどその頃から、社会調査を始めるという次の段階になると思います。北原先生がアジ研から神戸にこられたのが1976年なんですね。私は77年に帰国しましたが、当時関西にはタイを勉強する人はそんなに多くいませんでした。しかし、北原さんとはほぼ年頃も似ていたこともあり、よく会う機会がありまた。北原さんから「赤木さん、自分はアジ研から来たんだけど、二人で農村調査やらへんか」という話がありました。私も文献調査や「10・6」などの貴重な経験はありましたし、タイの地方を旅行して回ったことは留学生時代にありましたが、本当にタイの農村の中に入ったことはありませんでした。バンコクだけではだめだと前から思っていましたので、あ、これはいい機会だなと思いました。タイの社会の現実をこの目で見るのが一番大切だと思っていましたので、「分かりました。北原さんやりましょう」ということになり、何回会ったか分かりませんけど、神戸と大阪を行き来しながら二人で構想を練ったわけですね。

当時農村調査で有名なのはコーネルのバーンチャン村(Bang Chan)1、それから京大のドンデーン村(Don Daeng)2、その二つがひとつの調査タイプとしてあったわけです。最初に北原さんと話し合ったのは、僕らには力量がないということでした。お金もないし、後援者もいないと。コーネル大学にしろ京都大学にしろ、立派な研究所であるし、そこと比べるとやっぱりしんどいなと思いました。二人で合意したのは、国立大学の普通の先生が科研かなんかでなんとかできるくらいの力量でできる調査研究をやろうということです。特別な財団やどこかからお金をいただくことを期待しない方がいい。だけど一般の大学の教員でもできるようなものをやろうというのが一つ。もう一つは、日本の農村とできるだけ比較できるような視点を持つような調査をやろうじゃないかということが、二人で考えたことだったと思います。

神戸大学の方は社会学がありましたが、外大にはそういう講座もなかったし、教える場もなく先生もいなかった。だから神戸大学の方に拠点を置いてやりましょう、ということになりました。当時神戸大学には学部長で杉之原(寿一)先生という方がいらっしゃいました。同和研究で非常に有名な方です。もう亡くなられたと思います。それから長谷川(善計)先生という社会学の先生が、日本の農村の調査をずっとやっておられた。同志社大学の社会学の先生で、松本通晴先生。皆さん先輩でしたが、その3人の先生のお話を時々聞きながら、どういう風にしていくかよく相談しました。また同年輩というより少し若いですけれど、田坂(敏雄)さんとか竹内(隆夫)さんとかそういった若い研究者を入れた研究会を立ち上げました。

段々構想を練って、いよいよ1979年に予備調査を始めました。タイへ私と北原さんと竹内さんの3人でとりあえず行きまして、タイ側はプラサート・ヤムクリンフン(Prasert Yamklinfung)先生とパッタヤー・サーイフー(Patthaya Saihoo)先生。どちらも、タイでは社会学で大変有名な方です。チュラーの政治学部のティラウェート・プラムアンラッタカン(Thiravet Pramuanratkarn)先生、それからスリチャイ先生と、この4人の先生をメインにして、相談し協力を要請し、OKしてもらいました。79年に最初にやったのが調査村の選定ですね。これがなかなか大変でした。最初ですから、大きなところを4つか5つ回りました。一番困ったのはタイの県庁に行って、そういう調査したいんだけどどっかいい所ありませんかと聞くと、みんなモデル村ばっかりを紹介してくれるわけです。これはあかんと。向こうは、これは良いと、村がめちゃくちゃ発展している所だとか良い所ばかり挙げてくるわけですね。もっと貧困の村を紹介してくれというと、いやそれはちょっと・・・と言われ、困りました。しかし段々分かってくれて、2つの村に決定したわけですけれど、なかなか難しかった。北部農村も考えましたが、結局は東北部と中部の二つになりました。そして、いくつかリストした村を検討して決めたのがナコーンパトム県とローイエット県の村です。そこへ行くことを決めました。タイ側のプラサート先生やパッタヤー先生など皆さんと相談のうえで決めたわけです。

1年後の1980年に本格調査をやったわけですが、これがやっぱり大変でしたね。その前に1回くらい私費で予備調査に行きましたが、何が大変だったかというと、調査票の作成です。北原先生の経験とか日本側の経験で、家族とか財産とか農業経営とか親族関係とか、ほとんどの情報を網羅するような調査票を作っていました。タイ語版を作る必要があったので、スリチャイさんも交えて何回も何回も協議しましたね。僕はその時が人生で一番頭が冴えていた頃かなと思います。大変大喧嘩もしました。「家族」といっても全く概念が違うし、色んなところでタイ側の意見と日本側の意見と食い違うところがたくさんあったのを覚えています。この調査票作成作業が本当に大変だったと思います。でもタイ側の先生も話していると分かってくれまして、日本のデータと比較することが必要だなとも前から思っていましたので、調査票の作成過程における勉強会というのは、本当に自分にとっても役に立ったと思います。大変分厚い調査票を作りまして、全戸調査しました。どちらも100戸くらいの規模でしたから本調査の時は2か月くらいかけて、2チームに分けまして行いました。

北原さんが後日おっしゃったのは、タイ人のチュラーかタムマサートの学生を使うのはなかなか難しかったということです。調査票1枚当たり幾ら払うと言ったら、自分で書きこんでしまって、ぱーっと返してくるような学生もいましたし、なかなか生産性さえ上げればよいと思ったけれど、そううまくいかなく難しかったですね。学生が一目見ていい加減な調査票の回答を持ってきたらもう1回つき返して、自分もついて行って、向こうの奥さんやご主人とちゃんと話をしなくちゃいけない。学生はたくさん調査票を渡せばバイト代をたくさんもらえると思っていたので、最初困りました。それも段々少しずつ言い聞かせましたので、上手くいくようになりましたけれど。調査票の作成とそれを使用しての聞き取り調査が一番難しかったというか、逆に言えば勉強になったということですね。でも、あの時代に農村調査を経験できたことは、私にとっては非常に良かったと今でも思っています。

それが最初の科研費を使った調査でしたけど、その後も私費で時々出かけては補充調査をしました。この間、「関西タイ研究会」という名前で神戸を中心に、時々外大で勉強会を開いて農村調査とそれにまつわる研究をずっとやってきたわけです。その過程で高井康弘君(現在、大谷大学教授)とか野津幸治君(現在、天理大学教授)とか谷口裕久君(京都文教大学。現在、大阪観光大学教授)とか若い人が段々入ってきまして、結構大勢の人数になってしまいました。最初に成果として出したのが1987年です。『タイ農村の構造と変動』3を勁草書房から最初に出しました。ところが私は、87年には実は日本にいませんでした。85年から87年まで日本大使館の専門調査員ということで、ここでまた2年間日本を留守にしたわけです。ですから1冊目の87年の『タイ農村の構造と変動』は、最後の詰めの部分でもう日本にいませんでしたから、北原さんに全面的におんぶしました。

私は2年間タイにいましたから、なかなかコミュニケーションをとれなかったのですが、最初の『タイの農村の構造と変動』でローイエットとナコーンパトムでの調査をまとめた後も、研究会は続けていたわけです。私が帰ってから、あるいはまだ大使館にいたかもしれませんけれど、農村内調査だけでは今のタイの現状を捉えることは難しいんじゃないかということになりました。徐々に日系企業などが入ってきたことを契機に、タイでも特にバンコクを中心に工業化の問題が出ていました。また、ローイエットの調査村の調査で一番分かったことは、出稼ぎの問題です。東北タイから、近隣の例えばコーラートとかそういった所に出稼ぎに行っているのかと思ったら、そうではない。ローイエットの村から一番出ていく先は、なんとラヨーンでした。ローイエットの調査村はノーンクンでしたが、ラヨーンには、ノーンクンの派生村みたいものがあるということが分かってきたわけです。ゴム園の廃材なんかを使った家具などの組み立て工場で働いているということが、段々分かってきました。

つまり、一つの村だけでは完結しない。都市と農村の関係を見る必要があるということで、2回目の調査をやったのだと思います。それがローイエットの出稼ぎ。ナコーンパトムの村の方は最初からバンコクと近いものですからバンコクとの関係が非常に強いというのが分かってきました。農村と都市をどういう風に関連付けるかということがこれから大切だろうということで、チョンブリーという中途半端な、バンコクから離れているけれどもう工場とかがたくさん出来始めたところの農村と、バンコクの近郊のミンブリーですね、そこを拠点とした都市近郊農村を1回調査しようというのが、2回目の大きな調査です。ただ、その調査の合間に必ず私は東北タイのローイエットの村へも調査に行きましたし、北原さんはナコーンパトムの村によく行って泊っていました。私もローイエットに行ったら1週間くらい泊っていましたけど、多くの村民がバンコクよりもラヨーンの方へよく出かけていました。もともと調査した2つの村は常に気になっていましたから、追跡調査みたいな形をずっとやっていたわけです。それとは別に、さっき言ったようにチョンブリーとミンブリーで、都市近郊の農業と都市化の影響を受けやすい地域をやろうということで調査したんですね。『タイ——工業化と地域社会の変動』4、これは1995年に成果として生まれています。

そしてその後、本当にしんどかったのですが、最初にやった2つの村がどう変化したかというのを我々がやる義務があるということになりました。京大のドンデーン村も再調査をしましたね。我々も、ローイエットとナコーンパトムの同じ村を同じように調査したわけです。これ非常に面白かったですね。本調査は1996年だったと思います。どのように変容したかということと、何が変容しなかったということを考えて、2つの1980年にやった調査村を再び調査しましたのです。15年ぐらい経っていましたけれど、本当に面白かったですね。  

私はその頃から管理職に就くことが多く、再調査にはなかなかフルには参加できなかったのですが。たしか、第1回目の調査時に、「バーン」、つまりタイ村落のプロトタイプみたいなものについて書いたものがあると思います。「タイ村落における権威基盤試論——<バーン>をめぐって」5で。私が38歳のころの作品です。これはノーンクンを観察して最初に書いたもので、自分では一番好きな論文です。再調査の時、その論文で論じたことが変容しているかどうか、私はずいぶん気になりました。「バーン」が変容しているか否かでした。実際、確かに表面的にはずいぶん変化していました。一昔の村の面影とは違うんです。村が変容し特に伝統的な家屋はなくなっているし、もちろん水牛もいない。しかし、私は、第1回目の調査から書いた論文で言及した「バーン」の権威構造、「バーン」がどのようにしてまとまっているかという点は、まだ変わっていないという確信を得ました。

つい最近、一緒にローイエットの村で2回の調査を行った竹内さんと電話で話したところ、彼はその後も毎年村へ行っているわけですけど、例えば村長の選び方、誰が選ばれるかということは、大体分かるというんですね。それはやはり親戚とか長幼といったものを基準に彼らは選ぶと。決して経済的に裕福な家の者が選ばれるわけではないというわけですね。そういうものを東北タイの村では維持して生きているということを、彼は言っていました。もう一つは、チャムという村の社と村人を結ぶ巫女さんみたいのがいますけど、このチャムに選ばれる者も基本的には親戚関係とか血統が重要視されていて、経済力などを反映した選び方は決してしないということを、彼は強調していました。今、ローイエットの村へ行ったら昔の村とは全然違う。例えば子供の教育とか出稼ぎとか日本にも大勢来ているので、そういうことは変わったけれど、村の権威をどうやって保っているか、まとまりをどうやって保っているかというのはあまり変わらないんじゃないかなという話をしておりました。私もそうだと思っています。

それまでの研究では、タイの政党がどうかなどということは、文献で調べていたわけですけれど、字面らを見る限りしっかりしているように思いますけど、実際の運用とかは随分違うじゃないかということです。やはり、タイ社会の実際の中に入っていこうという考えを北原先生と一緒に持ったのは非常に良かったと思っております。

地域研究とは何か

私はこの調査を通して、初めて地域研究とはこういうものだなと思いました。そうでないと、本当にその社会を把握することはできないとその時にやっと気づいたし、勉強したと思います。やはり一番大きい理由は、北原さんと組めたことではないかと思っております。コンビとして非常に良かった。北原先生も長野県の田舎の出身です。最初に会って話をした時もその話が出まして、非常に親近感を覚えたわけです。北原先生と一緒にやっていかなあかんなと一番思ったのは、ローイエットの村へ行った時、それからナコーンパトムの村の時もそうです。日本のチームが入っていった時に、村人の中に噂が立つわけですね。特に一番困ったのは、中部タイの村では、最初僕らは何かお土産をと思って、皆さんの家に腹痛薬か何かを配ったのです。そうすると日本人が毒を撒いたとか、そういう噂がぱっと広がったんですね。それは非常に困るわけです。農家を1 軒1軒訪ねて調査する時にそういう噂が立ちますと、どこの農家も会ってくれないし、居留守を使われることもあるわけですね。本当にその家のことを分かっている人にインタビューする必要がありますから、本当に困る時があるのです。ローイエットの村、ノーンクンへ最初に行った時、僕は2日くらい遅れて行ったので、北原さんや皆さんが歩いて地図を作っていたんですね。家屋ナンバーを全部つけて、その村の大体の地図は出来ていて、ほぼ全体が分かるようになっていたのです。

ただ北原さんがいうには、もう一つ村人がこっちを向いてくれない。私は考えて、「北原さん、村の社とか、お寺に挨拶に行ったかい」と言ったら、「行ってない」というわけです。あ、これやなと思いました。私は「北原さん、これはもう分かった。お酒や鶏肉を用意して挨拶に行かなあかん」と。そして、村長さんにご一緒いただいて、他にも3人くらい村の人を連れて村の社に行って、「これから日本人の数名が入ってきて、この村で色々お仕事をしますけれど、よろしくお願いします」というようなことを、こうやって拝みながらお願いしたわけです。そうしたら次の日からコロっと村人の態度が変わった。これやな、これがやはりないと村落調査はできないし、地域研究はできないと思いました。

というのは、例えば北原さんと話をする時に思ったのですが、統計とか数字だけだったら誰でもできると。学生を使って調査票を収集すれば誰でもできる。その数字だけで色んなことを考えて、こうだこうだということはできるけれど、それは地域研究じゃない。数字だけ並べて云々するのであれば、タイの農村の一つのサンプルに過ぎない。だけど我々の研究は、そうではなく、村の中に入っていく必要があるということを、その頃から二人でよく話をしました。それが僕にとっては非常に大きな思い出であり、調査では村人の中に入っていけるようなことをやらないと、本来的な地域研究とか農村調査は難しいんじゃないか、単に統計に頼るだけではだめだということ感じましたね。それは、私が一番勉強したことです。

今でもその村へ行きますと皆さん声をかけてくれるし、本当に親密な関係が構築できたと思います。当時経験したことですが、東北タイにはYu Faiというのがありますね。Yuは居住の居、Faiは火です。「居火」というのかな。女性が赤ちゃんを産んだ後、真っ赤に炭と木を燃やした囲炉裏の横で、横たわってお腹を温めるんですね。そうすると毒気が取れて、産後の日達が良いという信仰があると。そこへ私も連れて行ってくれたのです。「赤木、見に来い」ということで。見に行って、そこまで見せてくれるというのは僕もまずいと思ったけれど、本当に。Yu Faiを見終わったら、そこの亭主がまたやってきて、「赤木さん、この産まれた子に名前を付けてくれ」と。これはやっぱり嬉しかったですね。そこまで村の人が信用してくれたのが、非常に嬉しかったですね。それが地域研究かなと。今にしたらそう思うわけです。それが、自分の中では北原先生と二人でやった中で一番嬉しかった。

北原さんは今いないので、どう思っているか分かりません。日本タイ学会に北原先生の思い出を書きましたが6、北原先生があんな考えを持っていたなんて思わなかった。自分の骨をタイに持って行って埋めてくれと奥さんに言っていたそうです。僕は本人からそんなこと聞いたことがなかったんですね。奥さんがある日訪ねてこられて、「赤木先生、うちの主人そればっかり言っていた」とおっしゃるのです。これはあかんと思って、私は北原さんの骨を、ナコーンパトムの村に納骨しました。村人全員来てくれて、大変な儀式になりました。今でもその村のお寺の壁の中に、北原先生の遺骨と写真が一緒に入っています。これは、北原さんが私と同じような思いを農村に抱いていたということじゃないかなと思いましたので、北原先生の恩返しのためにと思って納骨の儀を一生懸命やりました。それがタイ農村研究をやった僕の経験の最たるもの、結論かなと思っております。僕は『タイの政治文化——剛と柔』7という本を出版しましたが、ひと月かふた月で集中的に書き上げた作品ですが、農村調査経験が強く私に働きかけ筆を執らせたものだと思っております。

タイ研究の支え

タイ研究を支えてくれたものに、言語は大きかったと思います。冨田先生の『タイ日辞典』8は、本当に苦労しましたが、この出版を全面的に支えることができたのはやっぱり嬉しいことでした。初版は養徳社から出したのですが、本当に苦労でした。当時はデジタル・データが存在しない時代でしたから、タイプライターを並べて、日本語、タイ語、英語を交互に手打ちで入力していったわけです。これは本当に大変でした。その時、私は1987年まではタイにいましたから、1週間に1回冨田先生から校正を見てくれと手紙が来まして、バンコクで見てそれを送り返してという、ラブレターじゃないですけれど、手紙の交換をずっとやったのを覚えています。段々良くなって、最後に日本タイクラブの名前で『タイ日大辞典』9を出しています。今ストックがなくなって、若い人が皆さん欲しいのにないので、これを少し修正したものを鋭意作っています。来年には出せると思っています。

それから、『タイ語読解力養成講座』10に触れなければなりません。外大のベーシックなタイ語の教科書がいるということで、野津(幸治)さん、佐藤(博史)さん、宮本(マラシー)さんと結構時間をかけて作りました。もう一つは、中島(マリン)さんと吉川由佳さんの『間違いだらけのタイ語』11。これは、東京の人がなんで大阪へ訪ねてきたか分かりませんでしたが、どうしても会いたいといって中島さんと吉川さんが押し掛けて来ました。これまで街のタイ語学校で教えてきたタイ語の教師としての経験を、教科書にしたいということでした。結局、これには監修という形で関わりを持たせてもらいました。外大という単科大学、外国語大学は、世界でも珍しい日本的な大学だと思うのです。のちにアジアのあちこちでも似たようなものができていますけれど。今でも僕は、学部教育は外国語学習をするのが一番いいと思っています。そのうえで、大学院へ行きたい人は行けば良いのであって、一般教養という意味では、語学の勉強が一番良いと思っています。そういう意味では、言語を大切にしなくちゃいけない。それをやることによって自分の研究が支えられたと思っています。

二つ目は、長期の滞在です。これは先ほども言いましたように非常に幸運なことで、僕はタイに長期間行かせていただきました。最初は研究者でもなんでもありませんでしたが、チュラー大へ2年間、それから1975年から77年はチュラー大とタムマサート大で2年間、それからタイの大使館に2年間。この大使館の時は、僕の人生の中で一番楽で一番何もしなかった時間で、本当に毎日本屋さんか古本屋さんへ行っていました。しかも良い車を購入し、運転手も雇うことができた。これはもう本当に良かった。今の専門調査員は仕事が多いそうですけれど、僕の時の専門調査員は時間的にも自由な時間が多かったし、私にとっては非常に良かった。これという仕事がないという意味で、非常に良かったと思っています。その頃集めた本ですが、今僕の家にある本の半分くらいがそうかもしれませんね。

それともう1回、1992年から93年まで、これは1年間ですけど日本学術振興会バンコク事務所に勤務しました。

やはり外国に出た時に思いがけない友人や知人ができるものでして、チャローン・スントラーワーニット(Chalong Suntrawanich)さんは、留学以来の友達です。先生になるとは思っていなかったけれど、彼はチュラー大の、最終的には歴史学科の主任教授になっています。もう辞めていますけれど。タイに行くといつも会うのは彼です。彼が色んなことがあると教えてくれます。彼は京都大学へも1回客員研究員として来ていると思います。友達の中では、彼から本当にいろいろな意味で助けてもらったということです。彼が60の還暦の時に、タナポン・リムアピチャート(Thanapol Limapichart)とスウィモン(・ルングチャルン)(Suvimol Roongcharoen)という二人の先生が、Chaopho Prawattisat Chomkhamangwet12という本を作りました。難しい言葉ですが、Chomは大将とか将軍という意味ですね。Wetが知識という意味で、Khamangは狩人、猟師さんという意味です。つまり彼は、タイで「歴史学界のChaopho」と呼ばれるような存在になりました。彼は非常に大事な友人でして、それができたのもタイにいたからだと思っています。

『奇跡の名犬物語』、そして日本タイ学会

それからこれまであまり話していないのですが、今の秋篠宮皇嗣殿下と知り合ったのも、1985年に大使館にいた時でして、バンコクで知り合いました。それについては今日は申し上げませんが、なぜかよく分かりませんけれど、今日まで彼と付き合っております。『鶏と人——民族生物学の視点から』13という本は、これも調査から生まれたものですけれど、中国の雲南省を舞台にした、生物学と民族学を一緒にして新しい目で人間と鶏の関係を取り上げた、殿下の編著書となっております。僕も闘鶏について書いています。雲南省のタイ族の村が多かったですけれど、その辺を調査したものから生まれたものです。

もう一つは、皆さんご存知だと思うけれど、『奇跡の名犬物語』14です。「赤木先生、なんでプーミポン国王のトーンデーンを日本語に訳したんだ」と、みんなから言われました。いつのことだったか忘れてしまいましたが、ホアヒン離宮でプーミポン国王にお会いしました。その時に、プーミポン国王は犬を連れておられたんですよ。可愛い犬やったから、たまたまその犬の頭を撫でたんです。賢い犬やと思ったんですけれど、その時はそれで終わったんですね。

それから3年後くらい、東京の大使館に行った時に、カシット(・ピロム)(Kasit Piromya)大使15が、「赤木先生、今プーミポン国王の本がヒットしている。日本の皆さんにも紹介したいから、翻訳してくれへんか」と言われたわけです。しょうがないと思って読んでみたら、あまり面白くもない。起承転結もないし、もう一つだと思って断ろうとした時にふっと思いついたのがホアヒン離宮でのことで、「これあの犬や、私が頭撫でた犬や」と気がつきました。「これはあかん、日本人であの犬を撫でた者は俺しかおらんな」と思いまして(笑)。これは神様が命じられたものだと思って引き受けました。それ以上の何でもないんです。確かにプーミポン国王著作の中では、学術的なこともちょっと書いてある。エジプトがどうのこうのと書いてあるんですけど、ストーリーはない。自慢話みたいなところもあるんだけど、まあよかったかなと思っています。のちに向こうの王室庁経由でお礼のお手紙をいただきました。決して自分から訳そうと思ったわけではなく、たまたま、前に頭を撫でた犬だと分かりましたのでこれはあかんと思ったのが翻訳のいきさつです。ですからプーミポン国王の翻訳ができたのも、おそらくタイでの滞在経験があったからだと思っております。

それから学会の設立。タイセミナーを北原さんと立ち上げて(1990年8月、愛知県蒲郡で創立大会)、そこから日本タイ学会にしました。段々タイ研究者が増えてきて、僕が始めた頃は希少価値どころかマイノリティもマイノリティでしたけれども、いまや学会も発足してみんなで議論できるようになった。私としては、石井先生と話をして、前の版は古くなったからということで、学会をあげて皆さんにご協力いただいて、『タイ事典』16を作ることができました。自分が勤めているところの範囲内で付き合うのもいいけれど、大学や研究者も外の人と付き合うのが非常に重要ということと、やっぱり言葉はある程度ちゃんとやっとかなあかんということが、私のタイ研究を支えたものということになります。

脚注

  1. Lauriston Sharp and Lucien M. Hanks (1978). Bang Chan : Social History of a Rural Community in Thailand. Ithaca: Cornell University Press.
  2. 野浩一(1969)前掲論文(注3).,Koichi Mizuno (1971). Social System of Don Daeng Village : A Community Study in Northeast Thailand. CSEAS Discussion Paper Nos.12-22. Kyoto: The Center for Southeast Asian Stlldies,Kyoto University.,口羽益生, 前田成文(1980)「屋敷地共住集団と家族圏」『東南アジア研究』第18巻第2号, 京都: 京都大学東南アジア研究センター., 水野浩一(1981)『タイ農村の社会組織』東京: 創文社., 北原淳(1981)「タイ農村の社会構造をめぐって:水野浩一著『タイ農村の社会組織』を中心として」『アジア経済』第22巻第10号,東京: アジア経済研究所., 福井捷朗(1988)『ドンデーン村:東北タイの農業生態』東京: 創文社.,口羽益生編(1990)『ドンデーン村の伝統構造とその変容』東京: 創文社.
  3. 北原淳編(1987)『タイ農村の構造と変動』東京: 勁草書房.
  4. 北原淳, 赤木攻編(1995)『タイ——工業化と地域社会の変動』京都: 法律文化社.
  5. 赤木攻(1983)「タイ村落における権威基盤試論——<バーン>をめぐって」『現代アジア政治における地域と民衆:1982 年度特定研究報告書』大阪外国語大学アジア研究会.
  6. 赤木攻(2014)「追悼 畏友 北原淳さん」『年報タイ研究』第 14 号, 日本タイ学会.
  7. 赤木攻(1989)『タイの政治文化——剛と柔』東京: 勁草書房.,赤木攻(2008)『復刻版 タイの政治文化——剛と柔』東京: エヌ・エヌ・エー.(掲載書影は復刻版)
  8. 冨田竹二郎編(1987)『タイ日辞典』天理: 養徳社.
  9. 冨田竹二郎編(1997)『タイ日大辞典 = พจนานุกรม ไทย-ญี่ปุ่น』大阪: 日本タイクラブ.
  10. 赤木攻監修, 野津幸治, 佐藤博史, 宮本マラシー著(1999)『タイ語読解力養成講座』東京: めこん.
  11. 中島マリン, 吉川由佳著(2004)『間違いだらけのタイ語』東京: めこん.
  12. ธนาพล ลิ่มอภิชาติ, สุวิมล รุ่งเจริญ, บรรณาธิการ (2015). เจ้าพ่อประวัติศาสตร์จอมขมังเวทย์ : รวมบทความเพื่อเป็นเกียรติในโอกาสครบรอบ 60 ปี ฉลอง สุนทราวาณิชย์. กรุงเทพฯ: ศยาม.
  13. 秋篠宮文仁編著(2000)『鶏と人——民族生物学の視点から』東京: 小学館.
  14. プーミポン・アドゥンヤデート著, 赤木攻訳, 木村修絵(2006)『奇跡の名犬物語——世界一賢いロイヤル・ドッグトーンデーン』東京: 世界文化社.
  15. カシット・ピロム(1944年生まれ)。ドイツ大使時代にシーメンス社への仲介でタックシン元首相の知己を得、その後押しで日本大使、米国大使を歴任。その後、反タックシンの立場をとり、アピシット政権で外務大臣(2008年12月から11年8月)を務めた。
  16. 日本タイ学会編(2009)『タイ事典』東京: めこん.