第25回日本タイ学会・定例研究会 友杉孝先生研究史聞き取りの会

それから当時、農村社会では久馬(一剛)さん、京都大学、土壌学の人ですね、久馬さんやそれから高谷好一さんといった人たちと一緒にタイの南部や東北部を一緒に旅行しました。これは久馬さんの土壌採取が一番の目的なんです。タイの水田の土壌がどのぐらい栄養分があるとかないとか、痩せているとかいったことがテーマで、土壌を採取して回ったわけです。高谷さんというのは地形を見る独特の目を持っていて、私は何もしなくてただ通訳と案内だとかそういうことをやっていたに過ぎないわけでありますけれども、高谷さんと一緒に歩いていてすごく面白かったというか、勉強になりました。それについて高谷さんの論文がいくつか出ておりますけれども、これはみんな高谷さんが書いたものであって、私はほとんど一緒にいたというだけで、あまり貢献していません。現場で話はしていました。

それからもう1つですね、調査旅行として口羽益生さんが東北タイ・コンケーンの調査を大々的にやったんですね。これは亡くなった水野浩一さんが最初に入って調べた村です。水野さんは、この屋敷地共住集団という1つの屋敷の中に、姉妹、両親、そういった血縁関係の、母方というか女性方の血縁関係の共同体というのがあると。これもあのタイが地縁共同体に乏しい締まりのない社会であるという議論に対する1つの反論という面があります。そういった屋敷地共住集団について発表した村に、口羽さんが入ってすごく厚い報告書を出している1。東北タイのこの地域においては、「ハーナーディー」とか彼は言ってましたけれど、「ハー」って探すですね、「ナー」は水田、「良い水田を探す」ということが1つの移動の原動力になっているということを、ここで彼は提唱しているわけです。

口羽さんが社会学的な側面で、それから福井(捷朗)さんが自然科学的に、コメ、稲作ということからやっぱり分厚い本を書いています2。だからコンケーンのこの水野さんの村というのは、水野さんが亡くなった後に2つ、社会学の本とそれから水稲栽培学というか、そういう本が出ているわけです。私も最初これに参加したんですが、漆にかぶれて、全く動けなくなっちゃった。初めての経験で、漆にかぶれるというのは思ってもいなかったんですけども、村の周辺の竹藪みたいなところを歩いているうちにかぶれたらしくて、足がパンパンに腫れて動けなくなっちゃって、結局私は口羽さんの本に何も貢献しなかったという残念な結果に終わっております。ただ私自身は、そういった漆にかぶれるようなところを歩いたおかげで、この村の人たちの、山野を領有し支配しているチャオという超自然的な存在に対する篤い信仰というものを知ることができて、後でタイのピー(注:霊や民間信仰の神々などを指す)といわれるものを考える上で、大変勉強になりました。

その次に、タイの農村研究で、Changing Features of a Rice-Growing Village in Central Thailand: A Fixed-Point Studyといったようなものが、これは出版はずっと後で、東洋文化研究所を定年で辞めて宮崎に移った後、あるところから「お金があるから本を出さないか」って言われて、それじゃあっていうので、「じゃあ出しましょう」と言ったら、「いやもうそれは話が違っちゃった」っていうので、何か奇妙な経緯な本なわけですね。だからどこも出すところなくなっちゃって、ところがユネスコで幸いにして引き受けてくれて。ユネスコで引き受けてくれたからそれまで書いたものをそこで出して、1つの本にしたというものです。だから、前半が1967年、後半が1993年といったものです。これは写真をいっぱいつけております。この写真でもってこの本の要約が分かるというぐらい写真をたくさんつけております。

最初に行った時に、これがパクハイっていうところの水田です(写真7)。パッと見た時に水田とはとても思えないようなところであって、近寄ってみると、この辺にちょっと黒くなっているところがあるのが、隣の人との境であるというような。ご覧の通りですね、畦がないわけです。水を溜める畦がなくて、ボーっと一面、これが浮稲地帯というようなところです。浮稲っていうのは「カーオニーナーム」といって、「ニー」って逃げるということですよね。水が来たらそれに逃げてだんだん伸びていく。それからもう1つの言い方、「カーオクンナーム」といって、上っていく。水面が来ると、それよりちょっと先だけ穂先が出ている。水がこう増えていくと、それにつれて稲も伸びていくから、だいたい稲の長さは2メートル以上になる。大変面白いのは、ここでの洪水ですね。川から水があふれてここは水がいっぱいになっていく。水たまりがあたかも湖みたく見えて、湖の上に稲の穂先がチョロチョロある。これが乾季になると、水が減っていきますから、倒伏するわけです。倒伏した稲の穂先だけ刈り取っていく。面白いのは、これを見ていると、その後水牛や何かに食わしているわけです。ここはものすごく広くて、向こうが見えないぐらいあるわけですね。だから労働力がない。労働力はどうするかというと、ここの土地を耕作している人は、ノーイ川の、パクハイのタールアといっている船着き場にいて、上流から出稼ぎに来る人とそこで会って、そこで話をつけて賃労働をやってもらう。その人たちはAさんのところをやったら次はBさんに行くという移動をしていて、このノーイ川に近いところに掘っ建て小屋みたいなのを作ってそこで過ごす。だいたいこれが2か月ぐらいかかるそうです。私が調査していた村のノーイ川で見ていると、この乗り合い船が目の前を通って行くわけです。それにこの時期になるといっぱい人が乗っていました。

後から思うんですけれども、こういった水田が、アユタヤ王朝の時には1つの経済基盤であった。それと、こういったところにおいては、土地をベースにした封建的社会関係というのはなかなかできにくいんじゃないかと思います。

末廣昭先生 :

土地に縛り付けるのは無理ですもんね。

友杉孝先生 :

こういうところでは、社会的地位は、直接的な労働力をたくさん保持するということです。この労働力を使って耕作して何かを売るというマーケットもないわけですから、結局は労働力。従者というか下人というか、そういった付き従う人がたくさんいることが、その人の社会的プレステージに大きく関わるんじゃないかと考えられる。タイのサクディナー制といったことがひとしきりいわれた時期がありますが、サクディナー制は、官僚の位に応じて何ライであるという土地の面積の大きさをいっているのですが、その面積を実際に支給したというのは、こういう土地を見ていると、とても考えにくい。土地を支給したのではなくて、ただ土地の面積によって社会的地位の上下を示したに過ぎない。何故土地の面積によってそういう社会的上下を示したかというのは、さきほどお話しましたインドシナ半島諸島あちこちにあるタイ族の、土地割替制といった土地慣習が、サクディナー制に反映しているのではないかというのが、私の差し当たっての推測です。

これが刈り取った後ですね(写真8)。水牛で運んで、そして家の前を少し掃除して、そこで水牛で脱穀している。水牛がもう決定的に重要なわけですね。水牛泥棒を一番、みんなかつては心配したわけです。水牛泥棒というと、土地のカハボディーだとかナック・レントーだとかいった有力者に話をつけて、そこでちゃんと受け戻されるわけね。金を払って。警察じゃなくて。

末廣昭先生 :

ジョンストンが書いた博士論文ありますよね、有名な3。ナック・レントーなんかを書いた。先生はナック・レントーなんかにもお会いになったのですか。

友杉孝先生 :

ナック・レントーとは直接会ってない。隣の集落にいたが、今は亡くなった。子供は後を継がない。あと油売りはやっぱりナクレントーだと思うな。

末廣昭先生 :

さっきの労働者の手配をやってたのが、ナック・レントーに近いでしょうね。

友杉孝先生 :

次、これが、26年の定点観測の意味。こちらが最初に会った時の部落長ですね。当時灌漑局の守衛をやっていました。で、26年後はこちらです(写真9,10)。

友杉孝先生 :

良い顔してますよ、良く見ると。私もやっぱり同じく顔が変わっているわけですけれども、定点観測の良さっていうのは結局、こちらとこちらを比較できる。これは定点観測をしなければできないわけですよね。では次です。

水牛を世話するのも仕事であって、同時に遊びでもあるわけです。この後ろの方にいる子供の、これが26年後(写真11, 12,13,14)。この間彼は、中東に出稼ぎに行って、そこでお金を稼いで帰って来てトラクターを買って、そして女性と結婚して近くの村に移住しているわけです。あの後ろの人はこれになって、こちらの人は中東まで出かけていっていると。次です。

さっき水牛の前にいた人の子供が6歳か何かになるとこれになって、こちらで、その辺の缶詰の缶を楽器に使っている(写真13)。この人が、もっと成長するとこちらで。もう村にはいなくて、バンコクの南の何とかというところに移住して、そして子供もいて工場労働者になっている。これが26年間の定点観測。じゃあ次です。

水牛が今はこういったコンバインになっていて、全部コンバインでしてしまう(写真14)。賃労働で近くに住んでいる村から賃稼ぎにやってきて、結局その耕作している人は何もしなくて見ているだけです。そういう風に農業は変わってしまった。次です。

村の人も、お金を少し貯めて、こういうトラクターでもって賃耕する。水牛はもういなくなっちゃったというわけね(写真15)。

26年間でどう変わったか。定点観測というのは、こういった変化を具体的にビジュアルな形で見せるということです。それから後は、こちらの本(Changing Features of a Rice-Growing Village in Central Thailand: a Fixed-Point Study from 1967 to 1993)で説明していきます4。これで、この写真の3番というところは、これは乾季になると水が引いてしまいますよね。そうすると水田のあちこちに水たまりができて、そこにたくさん魚が集まってくるわけです。同時に、日を決めて、その魚をみんなが集まってガヤガヤ楽しみながらとっているというところで、魚をとる日が同時にみんなが楽しむオケージョンにもなっている。

それから4と5は、これは村ではなくて、アントーンのお寺の1つにこういった彫刻があったわけですね。石像が。これはクメールの影響がアントーンにおいて大きかったということを示す石像でありますけれども、その後行ったらこれ、何故か全部セメントで塗られて、わけが分からなくなっていました。それから6番が、この村の住宅ですけれども、右の方と左の方とで1つの板が渡されていて、これが姉妹です。結局妻型居住でありますから、姉妹が隣り合わせで住んでいるということも珍しくないということですね。

それから7番が、朝食。8番がベランダの中の料理場ですね。それから9番が村の道路の中で、さっきのハープと、籠を担いで行商やっている。10番が村のお寺の住職で、住職はその宗教的指導者であるだけでなしに様々な人々の心配事の相談相手にもなっているので、村の精神的支柱であるということです。それから次のページは托鉢ですね。それからその下の12番というのは、亡くなった場合に遺体をこのお寺のサーラー(注:●●)に運んで、安置するという。それから13番がこの村の小学校ですが、小学校がお寺の境内の中にあって、みんなこう楽しくやっていると、喋っているというわけです。

次のページの14番がまた水田に戻りますけれども、倒伏した後の米の上の方だけを刈り取っていく。その下がかつてはアオレンといってみんな助け合いでやっていたのが、今は全部近くの集落からの賃労働になっていく。それから20番が村のおじさんたちですね。20番、21番と。当時はですね、この人たちがみんな活き活きとしていましたけれどもね、後でお見せしますけども、何かものすごく経済が発展して村が変わっちゃって、今はみんなションボリしているというところです。それから22がチャノート・ティーディン(注:土地の権利書)。こういったその紙切れが権利関係を示していて、これも行きわたっております。

それから次の23、24が市場で、毎朝開かれている。25番が、これは家の周辺に竹藪があって、そこから竹を切り出してきて、こういった竹竿を作っている。こういう風に米は自分でつくり、竹竿も自分で作り、魚も近くの川から採るとか、サブスタンティブ・エコノミー(substantive economy)といった、後で話題にする経済が、お金目的ではなくて自分が生きていくために、そういった竿を自分で作るだとか、魚を川で採ってくるだとか米をつくるだとか、そういった事柄がそれぞれ毎年毎年行われていく。それが今風に言えば定常社会というものであって、定常社会という言葉はなくても、実態としては、こういった経済が行われている。

しかしそこでは、全く外との交流はないというのではなくて、次の29番は、集落のはずれにある精米所のオーナーである中国人です。中国のそろばんがあって、収穫したコメに対してお金を支払うとか、それからお金の前貸しもやっておりますから、それを引くとかということがここで行われている。

30番がクーリーで、やはり水路がまだ機能していて、コメのようなバルキー(balky)なものはそこで運んでくる。31番が、ノーイ川の川岸に他所からやって来た人が船をもらって、ここで夜明かししているわけです。水路によってあちこち出かけて行って、行った先で夜明かしして、何か商売をするということが珍しくなかったわけで、これはアユタヤの方から来ている人ですけれども、この村の人も、自ら出かけて行って他の地域で何か商いをするということもやっていた。それから32番、魚をこういう風にとって、次のページの33、34は上の方が日に干して干物にしているわけですね。下の方は炭であぶって燻製にしているわけで、こういうものもやっぱりサブスタンティブ・エコノミーの一部であるわけです。

その次がサンプラプームと言ってタイのどこにでもあるピーと言われるお祭りです。それから36番がコンソンと言ってシャーマンですね。亡くなった人の霊にとりつくとか、とりつかれるとかで、この人はインドラの神に、こう入って来て、そしてなくなったものを探すだとか、病気を治したとかいろんなことに関わっています。村はずれのところにあって、ここで夜遅くまでやっていて、ここに行って見ていると、すごく面白いですね。これまで座ってた人がパッとこう立ち上がって、踊りだすんです。踊りだして、ここでクライエント、来てる人が何か聞くと、それに対して何か話す。この、コンソンと言ってますけれども、シャーマンも村の生活の一部になっている。

次は、37番は得度式です。男子は一度必ず得度して、徳を積むと。それによって自分を育ててくれた母親への感謝のしるしにするだとか、いろいろ言われておりますけれども。この得度する前は、「コンディップ」、「未熟な男」。得度して僧侶を経験すると、「コンスック」、「成熟した男」という言い方がされております。1つの厳粛な式でありますけれども、同時に、みんながこの人を祝っていくという祝祭的な要素もあります。

38が、儀礼的な問答が行われて、ここでもって許されて僧侶になるというわけです。それから、次のページは、これは「カーンテート・マハーチャート」といって、日本でいう大本生経、聴聞ということで、仏陀の前世の話なんです。仏陀の前世で、こういうことをやっていたと。そして自分を捨てて、自分の身を虎に食わせると。そういったことまでやった仏陀の純粋無垢な精神ということがここで語られるわけであって、その語りの口調というものが人々の心を打つ。村の人々は集まって来てここで話を聞きながらローソクを掲げるだとか、お賽銭を捧げるとか、いろんなことをやっているわけです。

お寺というものは、単純に仏教による救済とかいうのにとどまらず、お寺が中心になって村の生活が行われているということで、41とか42だとか、43はみんなお寺の集まりですね。お寺の集まり、例えば42はゴシップであるとか、あるいは村のゴシップから始まって当時のタイの政治ですね。サリットはどうであって誰それがどうだとかいったことまでここでおしゃべりの対象になっています。その下の43がお寺のそのコミュニティというか集まりで、この人たちがお寺の具体的な世俗的なものを決めて行っているわけですね。

それから44と45はソンクラーンで、ソンクラーンというのは1年に1回の水祭りで、1年がここで蘇る。最も暑い時で、水かけでみんなビショビショになっている。夜はこういった屋台が出て、みんな好き好きに食べている。それから、46のこれはお寺の前ですけれども、右手の上の方に僧侶が傘の下にいて、ここでみんな楽しく騒いでいる。47がボートレーシングで、これがまた盛んで隣の集落とどっちが勝つかということです。それから48が、これは闘鶏です。闘鶏も盛んに行われて、どこで闘鶏やって誰が勝つか、村の人は闘鶏に全く夢中になっておりますね。だから闘鶏によって借金するだとか、何とかっていうのはありふれたことだと。

それから49、52は、村の水田でノーイ川の左岸の方は浮稲地帯でありますけども、右岸の方は土地が高くなっていて、ここでは田植えが可能であると。ものすごく暑いところで田植えして、そして刈り取るということは、浮稲に比べればこっちがよっぽど大変なわけですね。で、こういう女性ですけれども、日焼けしないように厳重に顔を隠すというか、日に当たらないようにして仕事している。この右の方の男の人は、後の写真でもう1回出てきます。人工の花を作るのですね。52の女性は、さっきパクハイの浮稲地帯の賃労働といったけども、この人もかつて若い時に賃労働で出かけていたということです。

54が新しい動きで、後ろの建物が灌漑局で、そしてここにいる人たちはみんな賃労働者で、かつては賃労働っていうのは限られた分野でしかなかったけども、その後はもう至るところで賃労働になっていく。私は、この事務所の左の方の端の建物のもう1つ向こう、(この写真と)似たようなところで泊まっていたわけです。

66番か67番、68番。この辺りは、村で人工の花を作るのが流行るようになって、バンコクとの間のローカルエージェントがここにいました。66の家なんていうのはかつてなかったような家でありますね。これがエージェントで、そして次のページの71、72、73というのは、こういう人工花というのが、各家で作られるようになっている。それから74、75も同じく、人工花を作っています。

末廣昭先生 :

これは、輸出じゃなくて、国内で売っていたんですか。

友杉孝先生 :

これは輸出です。香港に輸出すると聞きました。だけどね、面白いというか興味深かったのは、ある家では針金だけ持って行って針金に何かトイレットペーパーを巻くというそれだけの仕事、ある人はちょっと上の方を削るだけという仕事をしていた。皆が作っているのはそういったパーツパーツ(部品)であって、自分が作ったものがどんなものになるかは誰も知らない。エージェントも知らなくて、ローカルエージェントもそれをバンコクの工場に持って行って、そこで組み立てられて香港に輸出するという風に聞いていた。この仕事がものすごく流行るわけですね。

末廣昭先生 :

問屋制家内工業の一種ですよね。

友杉孝先生 :

そうです。これいつまで流行っていたか分かりませんけども、ともかく流行っていた。その後、写真91から92、93と、そういうことが流行った結果、村の男たちはすることがなくなっちゃって、まあ何かションボリしてね(笑)。虚無的で悲しい感じになっちゃっているというのが、例えば92です。92、93。それに対して97の女性もすることがなくて、この人は子供たちの仕送りだけで生活したけど、まだ何かシャキッとした感じが残っている。

ということで、この後の後半の部分については、もう若い人はここに残っていなくてどんどんバンコクへ出ちゃうし、それから残っている人も、村に入ってくる道のところにいると、朝5時45分にアユタヤの工場の車が来て、それに乗ってこの先のターチャンというところまで行くんです。また帰りはそれで送られて帰ってくる。それから稲作も決定的に変わって、61番の写真ですけど、これは灌漑局の計画によってこういう水路ができて、この水路によってこれまでの浮稲のところに水路から水を入れていく。そうすると浮稲の場合には雨季と乾季では、雨季にコメを育てて乾季に刈り取るけど、この場合は乾季に水を入れる。乾季に水を入れると、ここから水をとっていくと乾季の水だから肥料に使えるわけです。そうすると収量がパーッとものすごく上がるわけね。農民はそのコメを全部売っちゃって、自分の食べる分は市場で買ってきて食べる。そういった稲作が一部で起こっているわけです。この水路をもって乾季に水を通すというのは、全部通すと水が足らないから、全部行きわたっていないけれども、一部ではそういうことがあった。そういった農業の革新を64の農民は指導して、そして水の分配だとかいろんなことで灌漑局だとかそういうところと掛け合っている。そういった農業が行われているわけです。

末廣昭先生 :

1967年に村に行くのにかかった時間と、1993年にバンコクから行く時間、どれくらいですか。

友杉孝先生 :

バンコクからアントーンに行って、アントーンから乗り換えて行くから、3時間かかってないね。バス、待ちあいがあるからね。行ってすぐこうすって変わるね。

末廣昭先生 :

67年でも。

友杉孝先生 :

最初の67年の時はもっともっと時間がかかっている。

末廣昭先生 :

だって船使うわけでしょ。途中から。

友杉孝先生 :

67年は船じゃなくても、バスでアントーンに行って、バスからまたポートンで行って、ポートンからバイクで行くとかっていうことになった。

末廣昭先生 :

どのぐらいかかりましたか。

友杉孝先生 :

何時間かかったかなあ。やっぱり5~6時間はかかっているでしょうね。だけどその後はもっと簡単になっちゃって。何しろバイクの後ろに乗っけてもらうと、本当に早く行っちゃいますから、もうバスを待つ必要がなくなった。その代わり危ないですけどね。

末廣昭先生 :

それはお金払って。

友杉孝先生 :

もちろん。

末廣昭先生 :

バイクタクシーのはしりですよ(笑)。

脚注

  1. 口羽益生編 1990.『ドンデーン村の伝統構造とその変容』東京: 創文社.
  2. 福井捷朗 1988.『ドンデーン村: 東北タイの農業生態』東京: 創文社.
  3. Johnston, David B. 1975. Rural Society and the Rice Economy in Thailand, 1880-1930. Ph.D. dissertation, Yale University.
  4. Tomosugi, Takashi. 1995. Changing Features of a Rice-Growing Village in Central Thailand: a Fixed-Point Study from 1967 to 1993. Tokyo: The Centre for East Asian Cultural Studies for Unesco, The Toyo Bunko.