研究史聞き取りの会〜友杉孝先生(前編)〜

(2018年11月10日(土)11:00~13:00 於学習院大学 南2号館4階第1会議室)

語り手:友杉孝先生(東京大学名誉教授)「私の研究したことあるいは研究したかったこと」

司会:末廣昭(学習院大学)、遠藤元(大東文化大学)、遠藤環(埼玉大学:総合司会)


遠藤環 :

今日は定例研究会としては初の試みとして、友杉孝先生にこれまでの研究史を語っていただきます。友杉先生のご紹介は司会の末廣昭先生と遠藤元先生にお願いしたいと思います。「私の研究したことあるいは研究したかったこと」というタイトルでご報告をいただきます。盛りだくさんですので、早速お2人にバトンタッチしたいと思います。よろしくお願いします。

遠藤元 :

本日司会担当の1人である遠藤元と申します。大東文化大学で今教えています。まずは今日お越しくださいました友杉先生、ありがとうございます。それからこの企画にあたって、事前の準備で末廣先生をはじめ、遠藤環さん、アジ研の小林さんの3人が特に中心に今日の会の準備をしてくださいました。短い時間ではありますけれども、有意義な時間になることを願っています。

私が司会を仰せつかった理由の1つが、たぶん、私が最後の友杉先生の東大での学生ということだと思うんですね。私が友杉先生の東洋文化研究所で行われた大学院の授業に出た時に、最初に文献として提示されて読まされた本が、ホン・リサさんのTax Farming System、19世紀のタイの徴税請負制度についての本でした 1 。何故その本を読むのかというご説明もなく、とにかくひたすら我々院生頑張って読んだのですが、その後でバンコクの歴史について書かれた別の英語の本を読みました。

Tax Farming Systemの後に何故バンコクの歴史なのかというのはちょっとよく分からないまま、とにかく我々一所懸命ついていきました。大学院の授業の合間合間に東京都内を歩くというそういう授業もありまして、友杉先生が「こういう場所にこういうものが、例えばお寺というものはこういうところに立地するんだ」とか、「こういうところに繁華街ができるんだ」というようなことをいろいろご説明いただきまして、つまり都市景観の読み解き方というのを実践で語って下さったということもあります。農村、あるいは農業に関する研究、それから都市の歴史に関する研究、都市景観の読み方と、どの辺りで繋がるかよくわからず、私も授業に出ていたんですけれども、おそらくそういった様々な、友杉先生が関わって来られたご研究の経緯であるとか、あるいはその関係性というようなことを今日は語っていただけるものだと期待しております。ということで、よろしくお願いいたします。

研究会の様子①
研究会の様子①

友杉孝 :

紹介していただいた友杉です。今日ここでお話をするということで、「では、いたします」と言ってしまったのですが、後から思うと教壇で話していたのはもう十何年も前であって、それからもう何年も、十何年も経っている。さらにですね、もっと悪いことに年をとって、思い出すということがなかなか難しくなって、「あれ、何だろう」って、すぐ人の名前であれ、本の名前であれ、地名であれ、イメージはあっても言葉が出ないということがしばしばあるので、今日果たしてうまく喋れるんだろうかと思って、だいぶん不安になったのですが、その不安を克服すべく、いろいろと細かなメモを作って来ましたので、このメモを見ながら、あるいは読みながら話を進めたいと思います。そもそもメモを作るに際して、過去のある時期の何かを思い出そうと思ってもなかなか思い出せないということもしばしばあったので、いささか心もとない状況の下で話をさせて下さい。

● アジア経済研究所に入所して(1959年~)

最初に研究の歴史ということで、アジア経済研究所から始めたいと思います。

アジア経済研究所が1959年にできて、その時に入所しました。私はその年(1959年)の3月に大学を卒業しているわけですが、アジア経済研究所は7月に発足しているわけです 2 。もともと私はアジア経済研究所なるものを知らなかったし、アジアを研究するというつもりもなかったんです。私はその頃、何かを調べて、そしてそれについて書くということには関心があって、時事問題などにも関心があったわけです。そういうことで、大学を卒業した時の第一志望というか、行きたいと思ったのはジャーナリズムだったわけですね。

ジャーナリズムということで、朝日新聞社の記者の試験を受けて、幸いにして筆記試験は通ったんです。筆記試験は通ったのですが、面接で不合格になったんですね。その理由は、面接官の1人に対して、正直に私は結核の既往症があることを話したわけです。結核の既往症があっても、それは当時あったパス(PAS)とかヒドラジッドだとか、いろんな抗結核剤を使って、私はもう完治しているということを強調したわけでありますが、その面接してくださった方は、「記者は非常にハードな仕事だから、あなたは向いていない」と言われて、ここで不合格になっちゃったわけですね。

結局、不満であったけど、落ちたのはしょうがないということで、どうしようかなあと思っている時に、アジア経済研究所で人を募集していると。私はアジア経済研究所というのはどういうところかということも知らずに、そしてこの研究所が人を募集していることはどこで見たかも、どんなメディアで知ったかも、今思い出せないんですね。何故かアジ研の募集に応募して、そして幸いにして受かったわけです。その時の試験は、面接で東畑(精一)先生が面接官になっていて、明治の思想家志賀重昂、この人は『日本風景論』だとか出していて、そういった話を聞かれたことを覚えております。ここでは幸いにして面接も通って、入ったわけです。

でありますから、その後アジ研のいわゆる第一期生だとかいわれていた中の1人であるわけです。その時入った人には、中岡三益さんだとか、林武さんだとか、平島成望さんだとか、その他いろんな人がいて、皆さん自分はこういう目的でもってここに行くんだといった、しっかりしたアジア研究をそれなりに積んだ人ばかりだったわけですね。ところが私は、そもそもアジアを勉強するという気持ちもなかった、アジ研に入って初めて始めたということで、アジアについてほとんど何も知るところがなかった。

その時入った人は、後に、誰がどこをやるかっていうことが決まっていくわけです。例えば中岡さんならエジプトを長年研究したからエジプトをやるとか、それから林武さんはマックス・ウェーバーを専門にやっていて、そしてウェーバーはヨーロッパのプロテスタンティズムだとか儒教だとかいろんなことをやっているが、中東については何もやっていないから自分がそれをやるんだとかいった、はっきりした目的を持っていた。一緒に入った鈴木長年さんはインドネシアだとか、何かあった。私は結局、誰がどこって決まっていった時に、タイについては誰も希望者がいなかったんですね。何故か誰もいなかったんです。誰もいないということで、「それじゃあお前やれ」ということで私が決まった。だから私のタイ研究の初めは全く消極的な過程で決まっていったということです。配属は当時調査研究部と言っておりました。そこにまあ入っていたんですが、一緒に入った中岡さんだとか林さんだとかその他の人たちはみんな、それまである程度勉強を積んでいますから、まもなく海外留学という段取りになったわけですが、私はタイについて昔シャムだと言っていたのがタイになったというぐらいは知っていましたけれども、それ以上は何も知らなかったということもあって、ともかく日本である程度勉強してそれから行きたいという希望もあって、最初に出発することは自ら見送ったわけです。見送って、後で次の年に海外留学ということにして、それまでタイ語の研修を受けておきたいと思ったわけですね。そんなことから東京外国語大学のタイ語科に研修生として派遣されました。当時、外大は滝野川の西ヶ原にあって、だいぶん不便なところだったのですが、そこに派遣されてタイ語研修を受けたわけです。先生はタイ語科の松山納先生で、この人はタイ語辞典を出すとか、あるいは日タイ辞典だとかを出した先生です。

末廣昭 :

おさむというのは、納品するの納ですね。

友杉孝 :

そう、松山、おさむっていうのは納品の納ですね。で、この人の研修を受けたんですが、受けたその研修生はたった2人です。これだけ立派な先生の研修にもかかわらず、当時タイについては(人々の)関心がほとんどなかったということもあって、2人で。私以外のもう1人は、通産省の事務官が一人来ておりました。

その2人で松山先生がおつくりになったテキストで指導を受けました。初めてここでタイ語に接して、タイ語の五声だとかあるいは文字の書き方など、あまりにも初めてなので驚くことばかりだったんですね。でも思ってみれば、外国人が日本語を勉強する時はもっと大変だったんじゃないかと思うこともあるんですが、ともあれ、初めての言語でびっくりすることの連続だったんです。

松山先生は大変温厚で飄々とした人柄で、この先生の授業を受けることが私は好きだったんですね。ある時先生は、「タイが新聞に載るようなことはほとんどない」と。で、「ある日新聞を見ていて、タイってカタカナの字が大きく出ていた。喜んでその記事を読んだら、実は魚の鯛であった」というようなことを笑ってお話になって、我々も同じく笑ったわけですが、そのぐらいタイが話題になることはなかった、そういう時代だったんです。

松山先生のところに通っている時に、「自分の弟子の石井米雄というのが日本に来るから、紹介する」とお話になったんですね。石井先生は、もともとはタイ語ではなくってラテン語だとかああいうのをやっていたのですが、その石井先生の先生である小林英夫さんから東南アジアの言葉をやってみたらということを勧められて、この外大の松山先生のところにいらしたというわけです。そして松山先生曰く、「ものすごく言葉のできる人で、語学の天才だから」ということで紹介されて、以後私はバンコクに留学してから石井米雄先生に非常にお世話になったので、松山先生は語学以外に人のつながり(をつくって下さった)ということで、大変ありがたい方です。

当時、アジ研の調査研究部で、いろんなことがみんな勝手に議論されていたわけですが、その主な話題はだいたい2つあって、1つはエリアスタディということですね。でもう1つは経済発展論です。エリアスタディというのは、第2次世界大戦中のアメリカで始まって、その占領したところなどの国、社会についてあまりにも事実が分かっていないから、そこでの事実関係をできるだけ網羅的に調べるというような主旨で始まったので、Human Relations Area Filesなるものをこしらえた 3 。これは当時京大に1セット入ったという話を聞いております。そこからその後、大陸部について1冊、それから島嶼部について1冊、大きな本が出版されております。

タイについても黒い表紙の本が当時、タイの歴史から政治まで網羅的に書かれたのが出ておりました。今どこかにあるかと思って家の中を探したけれど、なくなっていて分からないんですけれども、ともかくそういう本が出ていた。そこで思うには、このエリアスタディ、地域研究論というものにも1つの歴史性があって、当初は東南アジアの各国についてあまりにも分からないから、いろんな事実を網羅的に集めてファイルを作る。これが出発点であっても、その後そもそも我々が学んだ社会科学は近代ヨーロッパを対象にした学問であって、そして政治、経済、何とか何とかって分かれていると。ところが、これから研究しようとする、例えば東南アジアについては、違った過程でできあがった社会であって、ヨーロッパのように経済、政治、文化、何とか何とかで社会が分かれているわけじゃないと。その社会は政治から経済から文化、切れ目なしに繋がっているんじゃないかというような議論もあって、エリアスタディの必要論が強調された。

一方においては、エリアスタディでいろんなことを言っているけれども、結局それは様々な事柄の寄せ集めであって、1つの体系は持ちにくいんじゃないかと。そうするとエリアスタディは学問研究たり得るかという議論もそこで起こって、その議論はいろいろと、議論する過程で組み合わされていったわけですね。その次の段階で、経済とか政治とかっていった各ディスプリンそのものじゃなくて、そのディスプリンの間を繋ぐような、インター・ディスプリーナリーが地域研究じゃないかという議論もされて、林武さんなどはもう「近代社会科学の創始者は全てインター・ディスプリーナリーであって、みんなアダム・スミスであれ誰であれ、経済は経済、何とかは何とかじゃなくて、歴史から経済から社会からみんな一続きに論議しているということから、その近代社会科学の創始者は全て、現在でいうインター・ディスプリーナリーとしての地域研究者であった」というようなことを話していました。

私はそういった議論の過程を通じて、自分なりに思うには、確かにこの体系というのは必要で、そういった体系を持つためには一定の視点、ひとつの視角が必要なんだけれども、同時に社会全体に対する目配り、感性が必要であって、両者の緊張関係、特に全体にわたる感性というものが大変重要なのではないか、というのがさしあたっての考え方であったわけですね。そういうことだから、エリアスタディというのは決して、調査地点をたくさん増やしていくとか、あるいは調査項目をたくさん増やすとか、そういうことでは決してなくて、ましてやある国、社会の事情通といったものでは決してないということです。

その次の経済発展論については、当時アンダー・ディベロップメントだとかいろんな言い方もあったわけですが、後進国だとかバックワードという言葉も使っておりましたけれども、発展するには何が必要であるかといったことがしきりと議論されて、資本集約的な産業、あるいは労働集約的な産業、どちらが重要であるとか、何とかかんとか。あるいは、いわゆる未発展国の社会においては、王族だとか特権階級、商人だとか、それらの人がものすごく個人的消費をしているからそれを止めればうまくいくんじゃないかといったような、今から思うとずいぶん頓珍漢な話も盛んに議論されていたわけであります。そしてさらに、当時はアジアの停滞論というのも盛んにいわれて、その停滞論の1つとして、アジアの灌漑水利に基づく、水利社会論というのがウィットフォーゲル(Wittfogel)の議論などを利用して説かれていたわけです。水利社会論というのは、農業水利をするためには膨大な組織が必要なわけで、そこに注目したわけです。膨大な労働力を駆使して水路を作ったり、水を配分したり、それからダムを作ったりいろんな土木工事をする。その労働力を効率よく組織することが必要である。それには専制国家、アジア的専制国家といった言い方もされていましたけれども、そういったものが論議されていた。

しかしこれも、タイについていえば1960年代以降急激に経済発展しますと、それまで話していた発展に必要なのは何かって議論は全て無効になるほど、現実がずっと前の方に発展していってしまった。で、研究者は後追いでもって何故そういうことが可能であったかということを考えざるを得ないというか、考えるのが大変であった。そういったことが起こる前に、発展論が盛んに議論されていた。たまたまバンコクに来た友人は、バンコクにたくさん僧侶が当時もいたわけです。そうすると、バンコクに僧侶がたくさんいる、これがタイの停滞の原因である、といった議論すらしたわけです。でも、そういった問題は60年代以降の経済発展で全て無効になる、ナンセンスになったということです。

脚注

  1. Hong Lysa, Thailand in the Nineteenth Century: Evolution of the Economy and Society, Singapore: Institute of Southeast Asian Studies, 1984.
  2. 1958年12月財団法人アジア経済研究所創立。1960年7月特殊法人に改組。
  3. Human Relations Area Files(フラーフ [HRAF])は、世界の様々な社会や文化に関する文献を集めたファイル。イェール大学の人類学者であるG. P. マードックが中心となって、1935年より編纂を開始した。地域、民族、時代別に区分し、さらに詳細な主題別に分類するという独自の分類体系を持つ。