第25回日本タイ学会・定例研究会 友杉孝先生研究史聞き取りの会

● 眼病の発生と立教大学への移動(1973年~)

そんなことをやっている時に、眼病発症といったことがあるわけです。普通、こういった研究史を語る場合に病気の話は滅多にしないわけでありますけれども、私の場合には眼病、目の病気が、研究と不可分に、また研究を大変決定的に制約していたということもあるので、少しだけ触れさせてもらいたいと思います。

この眼病というのは、どういうことかというと、帰って来て4月に、太陽の光がものすごくまぶしく見えたわけですね。そして、そのうち目が白く霞んでいって、文字が見えにくくなってくる。目も充血してくる。で、眼科で受けて薬を貰って、その薬を点眼すると良くなるけど、またすぐ悪くなる。そして右が悪くなって右を点眼して薬を飲んで良くなると、今度は左が悪くなる。左が良くなると右が悪くなるということで、繰り返し繰り返し起こる。これは何だということで、厚生年金病院に、あれは何日間か、4~5日、入院して検査しましょうということで検査入院するわけです。検査入院してそういう眼病で可能性のあるものを1つずつ潰していくということをやって、最後に残ったのがベーチェット病という病気だというわけですね。

ベーチェット病というのは、私は知らなかったんだけど、これはすごい大変な病気であって。失明する可能性も高いというので、大変な病気であると。ただ、ベーチェット病の症状が全部揃ってあるのではなくて、ない症状もあるということから、不全形、完全でないというのですね。「不全形ベーチェット病」と診断があった。発作が起こると、ものすごく視力が低下する。これに対応するには、炎症に精いっぱい対応する、対応するのが精いっぱいであって、プレドニンというステロイドホルモンの薬を飲む。それから目の近くに注射をするだとか、それからもちろん、点眼薬はたくさん使う。そうすると、たくさんのステロイドを使うことによって、目が緑内障の危険も出てくると。しかし緑内障の危険があっても、放っておけば、薬を、ステロイドを使わなければ失明してしまうわけだから、使わざるを得ないから使いましょうということで、使っていったわけです。

そんなもう、自分の病気に対応するのがもう精いっぱいであって、もう本当に途方に暮れていたわけですね。医者によっては、もう学問研究っていうのは、この病気になっていれば無理だという人もいたんですが、私はまあ完全形ではないんだから、不全形だから、行くところまで行ってと、後はその時の話だといったような気持ちになっていった。ともかくも炎症が起こるとそれに対応するのに精いっぱいで、ある時はこういった字も読めなくなってしまうんですね。字も読めなくなるから本も読めないという状況もあったわけです。

そんなことからですね、アジ研では当時タイムレコーダーというのがあって、朝9時でしたかね。それがね、きつくなってきたわけですね。きつくなって、もうアジ研で9時に間に合わなくて、だいぶ遅刻がたまって月給引かれたんですかね、そういうこともあって。もう嫌気がさしてきたわけですね。そんな時に立教の話があって立教に行ったと。立教大学に移ったのは別に病気だけではないけれども、病気が1つの引き金にはなっていたと思います1

末廣昭先生 :

難病っていうのはアンコールワットで転落したのとは関係ない?

友杉孝先生 :

全然関係ない。

末廣昭先生 :

あら、じゃあ全然違う。アンコールワットの祟りだっていうので僕らは言ってたんですけど(笑)。

友杉孝先生 :

伝説はいろいろと立つものであって(笑)。要するにこれ、ベーチェット病というのは原因が全く分からないんですね。だからどういう病気かって、今はインターネットで検索すればすぐ出てきますけれども、ともかく大変な病気なわけです。で、行くところまで行くと。病気でこう何回も炎症が起こると、中で癒着が起こって白内障になってしまうとか、両眼白内障だから白内障の手術をする。今は白内障の手術で中に眼内レンズを入れるけども、こういう炎症性のものであるから、後遺症の場合には眼内レンズ(を入れること)ができないということで、今でも眼内レンズなしに眼鏡をいくつも持っているというような塩梅です。それからステロイド性緑内障というものも結局起こってしまって、今でも定期的に病院に行って眼圧を測ってもらって、その眼圧を下げる点眼薬は使っているわけです。

しかし、そういった酷い目にあいながら何で学問研究を止めなかったかと思うんですけども、1つは途中でもって、職業を変えるっていうのは大変なわけですね。それは1つあるけども、それだけじゃなくて、学問研究ってやっぱり面白いんですよ。そして面白くて人を夢中にさせるところがあるんですね。そんなことから、さっき話したタートだとか、あるいは一般農民のプライ・ルアンだとか、プライ・ソムだとか2、あちこちの文献で探してあーだこーだって考えて、社会史を考えたらもう面白くてですね、それで結局今に来ちゃったんだと。だから学問研究の面白さということで、今に至るというところもあるわけです。

● タイにおける農村調査・研究(バーンサイ郡調査)

タイの農村調査にまた戻りますけれども、まずバーンサイ郡予備調査。バーンサイ郡というのは、この水路のずっと向こうにいったところにあります(写真1)。この水路は、人工的に掘った水路であるというのは一目瞭然で、何故かというと真っすぐですね。どこまでもこのように真っすぐにあるということ。そしてこの両脇に、ポツ、ポツって、家があるんですけれども、それぐらいであって、後はぼーっともうまっ平な土地が広がっている。ボウリング条約によって、広がった耕地っていうのはこういうところなわけですね。こういうところだから、運河ができて、土地が、それまでの荒れ地が耕地として認識されるようになると、その両側には大土地所有制が発達することになる。このアユタヤより北の方はそういった大土地所有制がほとんどないわけですが、ここでは大土地所有制がずっとあって、この向こうにまたこの真っすぐな水路があってその交差点にいろんな物が売っているとか、チョボチョボとお店があるという状況です。これがボウリング条約によって、それまでの荒れ地が耕地になっていくということを示す1つの写真で、非常に特徴的だと思います。そして船によって往来していくので、それ以外に道がないわけです。

で、ここに何日か行って話を聞いたところでは、ここら辺りの土地の所有者は、バンコクのサームセン教会です。教会が大土地所有者になっているということです。

末廣昭先生 :

多いですよね、アユタヤとか。

友杉孝先生 :

コンセッション(concession 注:土地利用権)か何かだと思います。

末廣昭先生 :

教会領っていうのは結構、多かった。

友杉孝先生 :

次にチェンマイのアジア農村です(注:「ムーバン=サンカプトング:北部タイの米作農村」(大野盛雄編著『アジアの農村』所収)の話題に移ります)。

友杉孝先生 :

(この写真は、)後で話します刈り分けの小作ですね(写真2)。

末廣昭先生 :

分益小作ですか。

友杉孝先生 :

分益で、こう、刈り取っちゃう。その場でもって、地主一杯、小作一杯となって、完全に二分されるわけですね。

これが村の中の、集落の中の家です(写真3。家でこれは中くらいですね。これよりもっと立派な家もあるし、もっと貧しい家もあるわけですが、こういった、だいたい2メートルぐらいの床上であって、写真でははっきり見えないけどもMっていう文字がみんなあって、それはマラリアの何か予防をやっていると。

末廣昭先生 :

それをやったという証拠になる。

友杉孝先生 :

そう。こういったのがずっと並んでいる。で、その次です。

あ、これですね。これは次の集落に行くところの川にかかっているもので、ああいったもので物をこう運ぶ(写真4)。

末廣昭先生 :

何かここから水が来るということですよね。

友杉孝先生 :

はい。それで、天秤でもって、日本では天秤だけど、天秤棒っていうけど、ここでは竹です。両脇に篭で、これでこう運ぶ、これはハープといっているものですね。で、この水路は下流に行くと農業用水になると。で次です。

これが稲作の後ですね(写真5)。これは大豆を種まきしているところで、その向こうはニンニクです。後で話しますけれども、大豆だとかニンニクっていうのはほとんど小作料なしでできるという。では次。

これが村の中のですね(写真6)。ここはメインロードであって2メートルぐらいの幅です。この人は朝早く市場でいろんな食べ物を買ってきて、ここでもって売って、その差額でもってちょっと稼ぐというわけです。

今はムーバン・サンカプトングで、これについては、どこにあるかというのはこのお配りした資料に載っています。

末廣昭先生 :

これチェンマイですね。

友杉孝先生 :

だいだい20キロぐらいでしょうかね。

末廣昭先生 :

これがサンカプトングですね。

友杉孝先生 :

そうですね。で、ムーバン・サンカプトングをどういう風にして選んだかというと、たまたまチェンマイで知り合った人のパートナー、奥さんの実家がここにあるということで行ったわけです。私が何かの条件をつけて、こういう条件だからここに行くというのではなくて、たまたまそこに行くことができたから行った。このサラピーというのは、チェンマイ美人の産地というか里で、有名であるというのは知らなかったんですね。でありますから、そういうことで行ったわけでは決してないのであって(笑)、たまたま知り合いがいて出かけたというわけです。

当時、ムーバン・サンカプトングを調べるという時に、タイの地域研究で一番中心的な話題は、エンブレー(John F. Embree)、アメリカの文化人類学者が、タイを、” Thailand – a Loosely Structured Social System” といったいい方をAmerican Anthropologistに発表したことでした3。「タイはルーズである」ということが当時の中心命題であったわけですね。ルーズである、締まりがないといったような話で、コーネル大学がバンチャン、バンコクのちょっと北ですね、を論証すべくチームで研究して、そして「ああ、やっぱりタイは締まりのない、ルーズである」といった論議が中心にあったのです。

それに対してですね、そもそも社会にあってあらゆる面で締まりがないなんてあり得るかという議論もあって、本が1冊出ております。私自身も、(エンブレーの議論は)タイを印象的に述べているという部分はあると思います。

末廣昭先生 :

先生が言われている本というのは、エンブレーをめぐった本ですよね。論文集みたいな。

友杉孝先生 :

論文集になっていますね4

友杉孝先生 :

エンブレーを擁護するものと反対するものと両方あるわけですけれども、そもそもエンブレーが、タイをルーズと言ったのは、彼は日本研究者であるからです。熊本県の須恵村について詳細なモノグラフを書いている人です。熊本県の須恵村の村落共同体を見て来た人が、タイの農村社会を見てルーズだと言ったのは頷けるわけですけれども、しかしルーズっていうのは、タイトだとかクローズとかの対比語であって、(色々な)意味を持つわけですね。そんなことからですね、私はやっぱり、タイで日本と同じような村落共同体を探したら無いからルーズだということになるんだろうけれども、タイはタイとしてきちんとした秩序ある決まりある社会であるということから、” Thailand – a Loosely Structured Social System”というのは、命題としては具合が悪いと思っています。

ともあれ、そんなことを頭におきながら、このサンカプトングに行ったわけですが、さっき話しましたようにチェンマイの知人の奥さんの実家である。そこで調査を始める前にサラピーの郡役場に行って、まず郡役場で郡長に挨拶して、郡長に私が調べたいところ、小さな区のムバーン(注:村)の区長宛に紹介状を書いてもらった。これは、1つは何もなしに(調査を)やっていて、変な奴がいるといって郡役場に通報されるのは困るといった心配もあったけれども、それ以上に、役場からの紹介状を持つことによって、「あいつなら話しても大丈夫だ」というようなこともあろうかと思って、ともかく郡役場に行った。そういう紹介状を持って調査を始めたわけですが、調査する前に、私は「マノップ」という風に名乗ったわけですね。これはよくもそういうことを言ったなとも思うわけですが、マノップっていうのは若い男というわけですね。若い良い男というような意味を、ニュアンスを含んでいる。今、日本で言えばイケメンといった言い方もあるんですけど、自らイケメンを名乗るっていうのはまああきれた話ですけれども(笑)。ともかくそういうことで、人に何とか親しんでもらおうとマノップを名乗った。

そして、まずはその集落全体を歩くということで、次の写真をお願いします。これですね(地図)。これは集落のもので、同時に集落の農事歴を示しているわけです。真ん中に牛車が通れるような道があって、そしてその脇に小川が流れていて、その小川が農業用水にも引かれるわけです。二期作で、(コメが)2回できますから、3月、7月に水牛で田起こしをする。そして7月と10月に刈り取りするというのがこの農事歴ですね。

この集落の中には、ヤシだとかバナナが生えていたり、果樹園があったりしております。そしてまた集落をずっと南の方に行きますと、キリスト教の教会があるんですね。私はキリスト教の教会があるというのは行くまでは知らなかったんですがキリスト教会があって、その教会を過ぎて行くとランプーンに入って、そこに寺院があるというわけです。そしてこのランプーンとかチェンマイとか何とかそういったのは、行政区としてはそこで区切られているけれども、集落だとか人々の生活としてはそういった境界はなくてみんな繋がっているわけです。

それから教会と寺院があるけれども、2つの間ではみんなそれぞれの人が集まっていて、いわゆる宗教による軋轢は全く見当たらない。話を聞いてもそれは「セーリー」、つまり自由であるということです。ここでもって村の生活を眺めていると、例えばここに、この集落の中に精米所があってその近くの人がその精米所を利用してその料金は糠を全部そこに置いていくとか、あるいは米1反当たり50サタンだとかを置くわけですけれども、朝7時から夕方暗くまで働いている。

見ているともうみんなすごく勤勉なわけですね。私が一番怠け者じゃないかと思われるぐらい勤勉であるわけです。さっき話した小川の維持も共同労働で行っていて、年1回の共同労働に必ず出ると。それは農業用水になっていて、この小川の元をたどれば、チェンマイのすぐ南にあるところから水を引き入れているわけです。全部共同労働で行っていると。

この調査をしながら、私の目でもって6つの階層に分けてみたわけですね。お配りしている資料にもありますけれども、これは世帯基本表で、81戸の世帯がありましたから、この81戸の世帯を、土地所有を基準にして分けていくことを試みたわけです。6つに分けていくといろんなことが分かる。私はこの階層1の中の世帯番号68のトット・ハンチャイさんの家に泊まらせていただいていたわけですが、それぞれの家の所有面積だとか水牛だとか家族数、それから家族構成、どこからそれぞれ来たとか、あるいは今何を職業としてやっているかということを、全部聞き取りして一覧表にしました。

これを見ていきますと、だいたい傾向として上層の1とか2の子供は、サラリーマンとして都市に移住してしまうとか、都市に移住して、ある人は裁判官になったとか、教師だとか医師だとか牧師だとか公務員など、高い教育を受けてそういう職業に就いていくと。それから下の2つの層の人は大工だとか土木工事だとか女中だとかでやると。あるいは女性ならば朝市で買ったものを行商で売って歩くといった、その階層によってどのような職業だとか、それからその後どういう風になっていくかということが、ある程度これでもって見られるということです。

私が行った時にはまだ開通していなかったんですが、ここには高速道路ができて、今はものすごく便利になった。これによってまたサンカプトングの社会とか性格が全く変わっていったのではないかと思われるわけですけれど、その後は調べてはおりません。すごく懐かしい気がして、行ってみたい気はするけれども、結局行けなったというわけです。

それから論文ですが、石井先生が編集された『タイ国:ひとつの稲作社会』5という本が出て、そこで私は「チャオプラヤー・デルタの稲作と社会」という論文を寄稿しています。デルタの自然条件、自然条件といっても地形と降水量を主要にしておりますけれども、それから歴史的条件、それはボウリング条約などですね。それからデルタの特に上流部、アユタヤから北の農村社会の定常社会の性格についてここで話しているわけです。当時はまだ定常社会という言葉もなかったぐらいで、結局デルタ上流部の農村社会がそれなりに完結した1つのまとまった世界であるという印象を論文にしました。

その次に1980年にアジ研から英語の論文で “A Structural Analysis of Thai Economic History” というのを出していますけれども6、これは共時的レベルの研究と通時的レベルの研究、つまり現在の研究と歴史研究をどういう風に関連づけるかという試みであって、あまり成功していないんですね。我ながら残念に思うけれども、成功していないけれど、現代農村社会を聖と俗の2つの面で記述していくことを試みた。つまり、聖はお祭りやお寺であります。俗は農作業とかいろいろあって、そういうものの組み合わせで研究していくというのに対して、(その2つだけでなく)もう1つ(注目したのが)カオスですね。お祭りの時の乱痴気騒ぎだとか何とかという要素を入れることによって、もっと動態的に、ダイナミックに記述できるのではなかろうかということで、この聖俗の二項対立に対して、ノモスとコスモスとカオスといった三項対立で農村社会を記述できないかということであったわけです。今思うとあまりにも形式論理に走りすぎて、どうも著者の意気込みで終わっちゃったという風に思います。

脚注

  1. (友杉先生補足)眼病はその後、東大眼科の診断で、不全系ベーチェット病ではなく、原因不明のブドウ膜炎とされた。
  2. ラタナコーシン朝初期、チャクリ改革以前のタイにおける身分徭役制度における区分である。大きくは、支配層(王族と官僚)と、被支配層(プライという自由民とタートという奴隷・不自由民から成る)に分かれる。プライ・ルアン(phrai luang)は国王に服属する公民であり、プライ・ソム(phrai som)はその他の王族や官僚に服属する市民を指す。
  3. Embree, John F. 1950. “Thailand: A Loosely Structured Social System.” American Anthropologist 52(2): 181-193. doi: 10.1525/aa.1950.52.2.02a00030.
  4. Evers, Hans-Dieter ed. 1969. Loosely Structured Social Systems: Thailand in Comparative Perspective. New Haven: Yale University.
  5. 石井米雄編 1975.『タイ国:ひとつの稲作社会』東京:創文社.
  6. Tomosugi, Takashi 1980. A Structural Analysis of Thai Economic History: Case Study of A Northern Chao Phraya Delta Village. Tokyo: Institute of Developing Economies.